改訂  2018/9/1
白矢勝一 絵画展

2014/7/24〜30
京王百貨店新宿 6Fギャラリー (第1回)

                                                                      
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白矢 勝一 画集






画集 掲載 文


「旅の途中でひとやすみ」
白矢 勝一

「オリオンさんと私」
吉留 邦治
 
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白矢勝一「画集」

掲載 絵画(抜粋) 近日中ホームページ収載 予定






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「画集」掲載 文 


旅の中でひとやすみ  −画集製作にあたって  白矢 勝一

オリオンさんと私   洋画家 吉留 邦治


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旅の途中でひとやすみ

―画集製作にあたって

白矢 勝一


今般、今までの絵画作品を纏めて画集を刊行する機を得た。通例なれば自らの創造に因む姿勢や信条、依って立つ思想なり、芸術論なりを併せて語るところであろうが、私の場合、医学という取り組むべき独自の大きな分野もあり、その経緯にもふれつつ、今までの人生の歩みをそのまま素直にたどることが何より自らを語るものであり、作品もまた偽りないその人格の反映であるので、かくの通りいささか回想的、自伝的に過ぎる文となったがご容赦いただきたい。

 =少年期=

私は昭和22年(1947年)兵庫県加古川市で生まれた。

私の生まれた昭和20年代、加古川の町の人々は河原に畑をつくり芋などをつくって飢えをしのいだ。子供たちは土手すべり、木登り、水泳、など夜遅くまで遊ぶことができた。今から思えば自由きままに泥だらけになって遊べる時代であった。川が近いので水着のまま家を飛び出し泳ぎまわったり、神社にある大きな二股になっている木をつたって細い枝まで登ったりした。今思うと、とてもできない危険なことだが、誰にも、うるさく注意されなかった。

小学校では、1年の担任の山本先生に、「白矢が暴れたら今度みんなで二階の窓から放り出せ」と言われたことを覚えている。通信簿はオール1、性格欄評価では根気強さのみ優秀で協調性、明朗性などすべて最低とされた。よほど先生に嫌われていたと思われる。母は、参観日で「いつもお世話をかけてすみません」と頭を地にこするつけるように下げて謝り続けることが続いていた。

ところが4年生の時、先生に「お宅のお子さんは、磨けば光る玉だ」と言われ、その時生まれて初めて褒められた母は、大喜び。空を飛ぶような気持ちで家に帰って来た。

その母は私を画家にしようと思ったことがあった。田中文房具の二階でデッサンを教えてくれると聞いて、そこに通わせてくれた。ここでの勉強は今でも役に立っているのかもしれない。10分ほどで描いたマジック画が最優秀賞になったり、新聞に載ったりした。それで大きくなったら画家か考古学者になりたいと思った。しかし父親に、それでは生活していけないと反対され進路を変えた。

その父は趣味と言えば川魚つり。父と一緒に夜遅く、はえ縄を仕掛け朝フナやコチなんかをとった。川魚は貴重な蛋白源であった。12月になると小さなショートケーキを二つ買ってきてくれた。兄弟で紙までしゃぶった。またある時にはバナナを二本、母は食べなかった。外地(台湾)でいくらでも食べたからということだった。私は皮まで食べた。「私のラバさん南洋じゃ美人」という歌がはやっていたころだったかもしれない。南洋から来たバナナはなんともいえない香と味をもたらしてくれた。

当時はどこの家にも井戸があったものだ。その近くに台所とちゃぶ台がある。ごはんとおかず一品あればよかった。我が家は貧しいが兄弟三人、祖父、父母そして猫、鶏とともに幸せな日々を送っていた。猫は何匹も子供を産んだ。ちょっと大きくなると河原に捨てに行く。

つらい記憶がよみがえる。誰かが拾ってくれていればという気持ちだけは今も残っている。鶏は何羽もいた。暖かい卵を産んでくれた。その鶏がイタチに殺されたのを今も覚えている。卵を産まなくなった鳥を自分たちでは殺せない。父と自転車に載せて鳥屋に買ってもらいにいく。50円なら買うと言われる。当時はすべての鶏の顔を区別できた。川でひよこ草を取ってきて育てた鶏だ。貧しい時代、愛情だけでは生きていけないということを幾度となく経験した。

=青年時代=

そのころはいい時代だったかもしれない。一億総中流、みんな金持ちでも貧乏でもないという中流意識を持っていた。勉強すれば偉くなれる、頑張れば報われる、そういう神話が存在した。私は東大を受験した。

東大に入った時の記念写真が残っている。入学後43年SUV3Bというクラスの一員に。このクラスの同窓会は毎年行われている。

私が入学したころ学生運動が盛んだった。それは東大紛争にと向かっていく。紛争は医学部から始まった。それに呼応して文学部、教養学部、農学部へと波及していった。法学部は反応が鈍かった。本能と理性の差がでているのかもしれない。あれは何月におこったことだろう。「無期限ストが決まったぞ」という声が響く中、同じクラスの藤井君とドラム缶の火を後にしながら「明日から授業がない、よく寝れるなあ」と駒場寮の前を歩いていた。その後長いストが続くのである。無期限ということは期限がないということだ。

この紛争中、何度もクラス討論が開かれた。卒業後も心許せる大切な仲である。上野君や三宅君 丸井君 私が幹事となって学士会館で毎年同窓会を開いている。

東大を頂点とするこの教育制度は正しいのだろうか。学問とは何か。

共産党系の民主青年同盟と反共産党系の社青同、革マルなどの全共闘との小競り合い。この紛争中駒場に三島由紀夫が来た。「全共闘対三島由紀夫」これは本にもなっている。この時私はその場にいた。三島由紀夫は当時売れっ子作家であった。売名行為のうまい奴だなあと思っていた。余談になるが彼の作品でおもしろいと思ったのは「金閣寺」、「不道徳教育講座」である。金閣寺の中で女に惚れられる方法が書いてある。主人公の友達がよくモテル。それはなぜか?彼が言うには「自分は足が悪い」自分の弱点を見せるんや、という件である。私は友達や兄弟とこれを肴におおいに笑った。この禿がええんや。この腕のやけどのあとに女が惚れるんや。まあ、あほなことを言って笑い転げた。

三島は駒場で堂々と持論を展開した。この後懐かしそうに駒場を歩く三島にサインを求める学生の姿を覚えている。この三島が自衛隊の建物の中で割腹自殺したのである。これをテレビで見たときは衝撃を覚えた。あの自己主張のかたまり、売名行為の彼が腹を切った。三島由紀夫の考え方は当時の私にはまったく理解できなかった。しかし現在の日本を見ると敗戦国日本の失ったものを彼は取り返したかったのではないかと考える。

そんな東大紛争にも終わりが来る。結局全共闘は敗れ、東大紛争は安田講堂攻防戦を境として終末を迎えるのである。

その後浅間山荘事件などにつながってゆく。筑波法がつくられ教育大学は筑波大学となり、その後「全共闘」は消滅。全学連も見かけなくなった。日本はおとなしい国になっていった。中国の天安門事件と同じである。為政者は都合のいいように法律をつくり国を操っていく。その結果がどうなろうとどうでもいい。

その後浅間山荘事件などにつながってゆく。筑波法がつくられ教育大学は筑波大学となり、その後「全共闘」は消滅。全学連も見かけなくなった。日本はおとなしい国になっていった。中国の天安門事件と同じである。為政者は都合のいいように法律をつくり国を操っていく。その結果がどうなろうとどうでもいい。

私はこの紛争中に自ら留年した。納得いかなかったからである。その後農学部畜産獣医学部にすすんだ。このとき駒場寮を離れ向ヶ丘寮に入寮した。この寮は狭い6畳ほどの部屋に男二人が住む。全員で60人くらいだろうか。夜誰かの部屋に集まって電気を消し、月明かりがさす中で寮歌などを歌う。硬派学生を気取っていた。貧しい学生は横山さんの手になる寮食のうまさに感激した。毎年行われる寮祭は横山さんに会いに行くのも目的の一つだった。先輩後輩が一つになって寮歌などを歌い肩を組む。向ヶ丘寮が廃寮となった今も同窓会は開かれている。

東大農学部ボート部入部。また農学部副委員長 におされ、デモなんかにも参加した。このころの青春の思い出は強烈だ。学生運動での駒場寮、東大農学部自治会室での泊まり込み、ボート部での戸田や山中湖での合宿、こういう集いはおのずと連帯感を呼ぶ。いまだにそれぞれ同窓会が開かれ楽しめるのは同じ釜の飯を食った仲間だという意識だろう。

さて卒業となるにあたり、どこかの会社に入るということになった。獣医医師の免許は持っているものの、まったく社会で働くという知識なしにある会社に入った。どうも肌が合わず他に移ったが、自分にあった仕事がなかった。それで医学部に入りなおすことにした。島根医科大学を受験すると幸運にも入ることができた。

学園祭が行われると展示会に間に合わすために夜遅くまで絵を描いた。佐伯祐三の絵の画集を手に入れ、人形などの模写を始めた。ゴッホやゴーギャン、印象派なんかにひかれていた。この当時の友人は今も篠上先生、渡辺先生を中心に同窓会を行っている。卒業するころ、東京に戻ってこいよという友達がいて彼の勧めで東大眼科に入ることになった。



=医師になって以降=

医局に入ったころの同期は五人、竹中、北野、鹿児島、村尾先生、今も頼れる存在だ。一緒に勤務医として同じ病院で働いた多くの仲間たちの存在は大きい。今も親密な付き合いがある。上司にも恵まれていた。長滝先生のおかげでアメリカに二度医学論文の発表の機会を得、博士号も授与された。

女子医大の教授になられた堀先生、およびDMセンター教授の北野先生には過分の配慮をいただき、大学の非常勤講師を退職期まで勤め上げることができた。

勤務先としては東大病院、東大分院、大宮日赤、最後に九段坂病院がある。すぐれた先輩、仲間に恵まれていた。東大本院では時代を代表する三島先生、谷島先生、北澤先生、新家先生、山本先生など偉大なる先生方に、東大分院では増田先生、蓑田先生、堀先生手、白土先生、藤野先生、大宮日赤では小島先生などに手ずから教えていただいたのである。 多くの先生方のおかげでなんとか眼科医として現在に至っている。 九段坂病院医長が最後の勤務医時代となる。その後、小平の地で開業。山之内、澄川、奥村、中野、小沢、等…。多くの先生方と毎月理事会で会えるのも楽しみの一つだ。

 

=絵画との出合=

 前述したが、東大卒業後いったん会社員となる。その後、島根医大を経て東大眼科に入り博士号を授与された。病院勤めの後、1990年(平成2年)小平に開業した。

開業後、絵を描いてみたいと思ったが、スペインに行ってベラスケスの描いた『王女マルガリータ』を見て、その絵の見事さに圧倒され、とてもそのような絵は描けないと、気持ちが沈んだ。ドレスの下にまた美しい色彩の服が見える。こんな絵描けるわけがない、今更絵を描いたところでどうにもなるまいと思ってしまった。ところがあるとき佐伯祐三の画集を手に取り絵の本質を見たような気がしたのである。佐伯祐三の『人形』である。

「絵は個性、下手でもよい、その人が真剣に取り組めばいい」との佐伯の言葉。

再び絵に熱中するようになった。佐伯祐三は、パリで客死しているが、彼の病と心身の軌跡をたどり、その人生と絵画作品との関係を知りたくて何度もパリを旅した。目的をもった旅は楽しく、その記録は、『佐伯祐三・哀愁の巴里』と題し吉留邦治氏と共著で、2012年(平成24年)に出版している。この本には佐伯の画家としてのすばらしさ、そしてその病について書かれている。

私の画業人生で画家の藤島清平氏と画家の吉留邦治氏に出会ったことは大きな支えとなっている。藤島氏は自由美術協会に所属し、人生を絵画に捧げてきたような感がある。氏の言われた事で印象的なことは「僕はセザニアンだよ」という言葉だ。近在絵画の父セザンヌその技法、姿勢は素晴らしいと思う。藤島氏に師事し絵を学べてよかったと思う。絵は自由だ、個性の大切さを生かすことが大切だ。実にそのとおりだ。氏は権力に対する反逆児という芸術家らしい一面がある一方自然に向かい素直な気持ちをお持ちのようだ。人間に虐げられた鳥を主題とする絵を多く見ることができる。人間は鳥を文明の名のもとに虐げていく。人もまた人の下に人を置く。私も子供のころ雁がくの字になって夜飛んでいくのを見た記憶がある。ヒバリがピーチクパーチクいってから急降下していくのを何度も見た。ところがいつのころからかまったく彼らを見ることがない。文化文明はすばらしいがまことに犠牲を伴うものである。

さてこのセザンヌについてだが、私はセザンヌは面白くないと思うという意見だ。理論的で感情的なものが薄いように思われる。ゴッホ、ゴーギャンなんかは情緒的だ。数学対文学みたいに思える。ところがこのセザンヌをゴッホやゴーギャンは称賛しているのである。これは法学みたいなものかもしれない。「なぜおかしな判例があっても、判例主義に陥るのか。」弁護士に尋ねたことがある。「1+1=2は変わらない。そう簡単に一度決まったことは変わってはならない」との返事であった。セザンヌの絵は法学部が文系に属するにも関わらず数学的理論にもとづいているのと似ているのではないか。セザンヌの絵は絵を絵らしく見せるかという合理性の追求だ。しかし私にはそこに味付けされた情緒的なものを感じる能力がないのかもしれない。

吉留邦治氏は「白と黒、線について語りましょう」という私のヤフー掲示板で知り合った画家、文筆家である。

さてその時のやりとりを再現してみよう。

 

[白矢]
絵を描き続けることは自分探しの旅に出ることと思っています。その絵には私しかかけない何かがあると考えるのがいいのかもしれない。個性を大切にして技術をのばす必要がある。今絵を描こうとしていますが黒色で悩んでいます。巨匠の光と影。影の色、黒い服の色の出し方誰か教えてくれませんか。色の効果的な使い方を教えて下さる方お教え願います。

[吉留]
黒というのは実に魅力のある「色彩」で、諸刃の剣のようなところがあります。成功すれば実に深みのある、詩情豊かな、落ち着いた、クラッシクな画面を醸成しますし、使い方を誤れば面白みのない、活気の無い、汚れた画面になってしまいます。その黒を真正面から受けとめておられることに敬意を表します。私の場合は成功の要件としてフォルムとトーンの的確な把握があります。それが成功すると黒は「色彩」として画面に落ち着いてくれます。便宜上絵画を「色彩・造形」派と「フォルム・表現」派に分けると、古典主義は後者に属し、私もぞの傾向を目指しています。今の主流は前者で、どちらかと言うと黒は忌まわしい色でそれから排斥される傾向にあります。現にその傾向のもので黒を使った成功例はあまりお目にかかりません。この国では伝統的に、「美しい色彩」、「明るく楽しい画面」、「個性」、「マチエールや素材の工夫」等を絵画上の価値として尊重し、現に画壇でも市場でも市民的価値観でも、そういうものが「いい成績」をあげてるようですが、私はひねくれ者で、その総てについて当然には受けとめていません。長くなりますのでこの辺でやめますが、いずれにしろ、先ず技法以前に、自分が信じるある方向に徹する事が大事だと思います。最後に技術的なことを言えば、私の場合、モチーフに応じ、黒になんらかの色味を加えたものにパレット上で事前にグラデーションを作っておきます。そうすると、地塗りとあいまって色彩計画上いろいろなものが見えてくるし、単純に白だけでトーンをつけた場合の青っぽいグレーの軽さは避けられます。それから、ランプは色味が強すぎいくら混ぜても真っ黒のままですので是非避けてください。因みに美しい「黒の絵」としてラ・トゥールの「大工のヨセフ」などはいかがでしょう。

[白矢]
話は少し変わりますが私のもう一つの疑問はバラドンとユトリロの関係です。母の男遍歴はさておき、どうしてユトリロは白を使い、壁や階段のある風景を描き続けたのでしょう。自分を捨ててしまった母と歩いた子供の頃の情景が心を占めていたのでしょうか。アル中の彼は、いつも寂しかったのでしょう。人間というものは、いつも寂しい存在で、満足できないようにできています。そういう状態のとき、白が心を支配してくる。頭の中が真っ白だなどいうのは、そこからでありましょうか。すると黒は?黒は全てを受け入れる色かもしれない。そういう気持ちでバスキアをみますとバスキアの黒と白は素晴らしい。彼は麻薬中毒。ルノアールやマネは?この3人は黒を主体としたこと、革新性、新しさでは一致します。黒は革命の色か?この論理の飛躍は正しくないかもしれませんが、白と黒はなかなか奥が深いと思います。4月の医師会の作品は黒主体です。

上記のように掲示板でのお付き合いが初めである。

吉留氏はコローを師匠とし見事な緑の世界を描いている。氏と共に石神井公園で蚊取り線香をつけながら、絵を描いたのは楽しい思い出である。 彼の絵はやがて師匠コローを超えて神がかり的なものになるかもしれない。

佐伯研究を共に行なったとき、佐伯祐三のカンバスを実際に作ってみたり、佐伯の線を再現していただいた。また分筆家としての才能はすばらしく画家だけにその才能をとどめるのは惜しいと感じられる。

 

さて絵は自分探しの旅みたいなものである。なかなか自分独自の絵は描けない。それはそうだ。アルタミラの壁画からエジプトのレリーフ、ギリシャ、ローマを経てヨーロッパの芸術は花開く。絵画はすでに描かれてしまっている。そこを通らずして絵を描くことはできない。

好きな画家は印象派の画家、ゴッホ ゴーギャン、モジリアニ、コロー、ブラマンク、佐伯祐三、パスキンなどである。模倣を試みたことは多々ある。

10年以上前かと思う。小平の同じ医師会に所属する松木先生から日本医家芸術クラブへの入会のお誘いがあった。それで銀座のギャラリーに出品するようになった。このクラブは昔、日本医師会を支えたくらいすごいクラブであった。このクラブで大村先生や玉井先生など偉大な先生方とお話しできたのは幸いであった。今も銀座でこの医家美術展に出品している。医家美術展では懇親会がありその席で各々の作品について語り合っている。また小平で活躍されている日耀会の吉田氏より氾美展に出品しないかとのお誘いがあり、上野の東京都美術館、六本木の新国立美術館にも出品するようになった。ここでも作品を前にして語る会があり楽しいひと時を過ごしている。

今回の個展と同じく期日の定められた展示会があると創作意欲も湧いてくるものである。 

 

絵画と医学はよく似ている。先人の研究を調べ、その先を読み解いていくのである。

現在も自分探しの旅の途中だ。巨匠と言われる人々はその人が描いたとすぐわかる。そういう絵を求めていくのが絵の世界だろう。最近面白いと思うのはパスキン、織田広喜、マリー・ローランサンである。彼らにはなんらかの共通点が認められる。今そういう眼で絵を描いている。 

 

=旅=

自分の専門以外で今も楽しめるのは世界史、音楽、美術である。そしてそれに必要なのは英語である。英語やスペイン語は世界を植民地にした国の言葉である。まさに勝ったもの勝ちが世界の歴史をつくっているが、これはなんともならない。織田信長が本能寺の変で亡くならず、当時世界最強の軍隊で持って世界に打って出ていたならば、いいか悪いかわからないが日本語が世界語になっていたかもしれない。とにかく英語が喋れれば旅はなんとかなる。ヨーロッパに行くのは知識の再確認という意味もある。知識は人生を豊かにしてくれる。しかし旅をするにはよく調べておくことだ。

兼好法師が書いた徒然草「先達は、あらまほしきこと」の仁和寺法師の話が参考になる。石清水八幡に詣でようとひとり出かけたが、途中にある極楽寺、高良大明神を拝んで、目的の八幡さまには行かず帰って来てしまった話。私も調べていかないと重要な場所を見逃してしまうという経験を何度かした。ベニスの溜息橋に続く牢屋など二回目に行って初めて気がついた。世界三大プレイボーイの一人カサノバだけが脱出できたという牢を一度目は見逃していたのである。世界三大プレイボーイは他に、在原業平、ドンファン。さて世界三大美女は?クレオパトラ、楊貴妃、日本では小野小町、ヨーロッパではトロイのヘレン。こういう連想がエジプトやトロイに行ってみたいという気を起こさせる。旅も永遠に続く。 

 さて、医学は科学的真実やそれに至る「手続き」が確立されたものについては、遣り甲斐や手応えも確かなものがあるが、病気で苦しむ「患者」が存在する以上一方的に「楽しい仕事」とは広言できまい。逆に絵画は懐深く、底なし沼のようにつかみどころ無く、結果も伴わず、これから先もどうなるかわからないが、「楽しい仕事」と誰憚ることなく言えるのは確かであろう。

最後にその楽しい仕事の今日までの集大成たる画集について。これは、人物、 人形、裸婦、抽象、風景、佐伯祐三によせて、花、最近作という順になっている。「佐伯祐三によせて」は著書・佐伯祐三哀愁の巴里発刊記念パーテイのために佐伯祐三の写真や作品を参考にして描いたものだ。みなさんにぜひご覧いただければ幸いである。



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オリオンさんと私                                       洋画家 吉留邦治

私は今まで医師たる白矢勝一氏を直接「先生」と呼んだことはない。長く氏が某ネットコミュニティーで使っていた「white orion」から「オリオンさん」と呼んでいる。「先生」という呼称は、その地位や権能を示す言わば「社会的言語」であり、したがって、そう呼ばれる人と呼ぶ人とのコミニュケーションは何某かの「社会的関係」の上にあるか、中身の伴わない慣行や儀礼である場合が多い。私はそのオリオンさんとの短かからぬ付き合いの中で風景やモデルを前にイーゼルを並べたこともあるし、一緒に本も出したし、いろいろな催事も共同したり、招待されたりもしたが、何より私自身を含めた文化・芸術に対する氏のメセナ的関わり方には衷心より尊敬するし、そういうことで総てとは言わないまでもその人格を知ることとなったのである。したがって、私が自然に白矢先生ではなくオリオンさんと呼ぶようになったのは、そうした経緯から、とても前述した「先生」などという社会的言語で括れない、その関係を単なる社会的関係、社交的人脈で留まらない、留まらせたくない、あるいは絵画芸術を介した「仲間意識」ということに他ならない。

 私がオリオンさんの作品を初めて観たのは10年以上も前、今は無き新宿の「ギャラリー高野」の氏の個展であった。会場に一歩足を踏み入れた途端、その奔放なフォルムと原色の氾濫、重厚なマティエールに意表を突かれた気がした。それはそれまで幾例か見知り、かつ漠然とイメージし、時に感心した「医師の趣味」たる、穏健で手堅い造形と全く違っていたことによる。否、それに限らない。昨今の画壇や市場には、確かに「絵作り」は達者で洗練されているが、どこか空々しい、あるいは、どこかで得た実績や評価を基準に、それを踏み出さないような、一点観ればあとは観る必要のないような、無難だがみんな同じような絵、あるいは時流を意識した形やスタイルから入るような絵、それと、これは昨今具体的事件として露呈されることになるが、権威主義と因習に支配された団体展とういう「社会的絵画」等々ばかりが目につき、いささか他人の絵に飽食気味であった私に、絵が本当に好きで、全力で持っている総てをぶつけたという絵がとりわけ純粋で新鮮に映じたのである。この作品に感じたものはその後、前述した氏の人格を知るにつれ誤りでなかったように思う。

ある時オリオンさんは「みんなで絵が描けるアトリエにもなるようなギャラリーを作る!」と言い出した。私は、いくら医者でもそれは相当な費用がかかるし、願望を口にすることはあっても実行する例などほとんど知らないので、初めは正直話半分程度に聞いていた。ところがある日、氏はギャラリーの設計図を持って嬉々として拙宅を訪れた。それは具体的に間仕切りや階段や諸設備が割り振られた青写真で、それを見た時初めて本気であることが分かり、「螺旋状の階段は100号以上の大作は搬入しずらいので真っ直ぐの階段の方が良い」など俄然具体的な提言をしたことを記憶している。今日それは「シラヤアートスペース」として絵画のみならず、音楽や諸々の催事で地域の文化振興に貢献している。

 また、後に私も一枚噛むことになるが、「佐伯祐三の本を出版する!」と言われた時もビックリした。好きなのはわかるが本までとはと思わなかったのである。氏は事に先立ち、本邦で出版された佐伯関係の本はほとんど入手した。中には今日ある佐伯の評価の礎となった、山本発次郎が自らのコレクションを当時の豪華本として出版したそれ自体が文化財的価値あるものや、後述する「贋作事件」の一方の当事者である自治体の調査資料など、入手自体が困難と思えるものすら含まれていた。さらに渡仏の際は佐伯の足跡を追い、パリ市内、オーヴェール、モラン、臨終の地エブラール病院等を訪れ、資料を集め、実際セーヌ河畔にイーゼルを立て、佐伯が感じたであろう「寒さ」すら追体験した。

 勿論これらはそうしたことができる諸々の環境もあったこともあるが、何より本人の熱意、一本気な資質がなければできることではない。

その贋作事件では、「佐伯祐三の芸術を愚弄し、佐伯やその係累の名誉を傷つけるデタラメは許せん!」と、連日のようにネット上でそれを批判し、あるいは本気で関係者を訴えることはできないかと弁護士に相談したり、その「デタラメ本」を出版した大手通信社に内容証明を送り付けたり、本当に怒っているのだと実感した。これらの事で私が感じたのは、かつて学生運動もやっていたようだが、ことに当たっての、青年のような直情的な純粋さである。昨今の日本をめぐる国際政治に係る氏の言動もそれと裏腹なものと解釈している。ただしこれは残念ながら私とは認識を異にするところ多々あるということを付け加えておかなければならないが、思想信条の自由は保証されるべきであろう。

 さて、私自身そろそろ人生の価値、無価値を整理し、迷いを捨て、覚悟すべきものは覚悟し、「明鏡止水」を憧憬するような年齢にさしかかっている。自分にその性格や生立ちから、世の中に対し「斜に構える」ようなところがあるのは認めるが、それを差し引いても、昨今、コミニュケーション上のウソやハッタリ、ホンネとタテマエの使い分け、社交辞令や自慢話などは誠に実(じつ)のない、面倒くさいものと感じるのである。その意味でもオリオンさんはウラオモテがないので、公私ともに実のあるコミニュケーションのできる数少ない人である。

 私はかねがね絵画など作品とその創造者の人格は一つのものであるべきと思っている。事実美術史上名を残した先達の多くはそうであった。現下の、作品と人格にまで本音とタテマエがあるような現実には目をそむけたくなる。その意味で先に述べた個展会場で観たオリオンさんの作品とその人格に齟齬はないと思う。

 さてこれは私の、若い頃やった個展での話である。そのギャラリーのオーナ―たる画商が、ややまとまりのない拙作群を観て言った。「どれが本当のあなたの絵かよくわからない。もっと、これが自分の絵画世界だというもので纏めるべき、全部見せたらダメなんです。」と。 

 実はこれは十分自覚した「分かっちゃいるけど止められねー」ことであった。しかし私にとっては逆に、その当時の自分の世代の若い描き手が要領よく一つの傾向の纏めている方が不思議であった。自分自身の絵画世界、造形性などそう簡単に構築できるものではない。むしろ描きたいものを描く、影響を受けた画家の造形性を追体験する、そうした繰り返しのうちに、長い時間をかけてそれが仕上がっていくものだ。事実、相当実績のあるベテランでも晩年に至り、絵画の奥の深さ、造形の難渋さに比しての持ち時間の短さを嘆いている。ことほど左様に試行錯誤や造形価値の希求、追究は一生ものであるはずという信念は今も変わらない。

 オリオンさんは最近、「まだ自分の世界が出来上がっていない」と語ったことがあるが、これは、上記実体験から意味がわかる。氏は、私の知るところでは、佐伯祐三、シャガール、宮本三郎などの造形性追究の遍歴がある。傾向は全く違うが、私の「師匠」であるコローの緑も評価したし、最近私が織田広喜美術館から取り寄せ、紹介した織田広喜の絵に興味を持ち、数万円もする画集も手に入れた。

こうした、直ちに影響を受ける、自分の絵で試してみる、という姿勢は年齢に関係なく、先に述べた趣旨の通り悪いことではないと思う。焦っても得られないものは得られない。無理にしたわざとらしいものもしばしば見かける。自分の世界が出来上がってないというのは試行錯誤の努力途上にあるという証明なのであり、そのプロセスの妙ということもあるのだ。

ただオリオンさんは多忙のせいもあるのか性格的なことなのかせっかちなところがあり、時々話が素通りすることもある。筆をよく洗うことと古キャンバスの今の絵と関係ないマティエールは除去すべきことをここで活字にしてダメをおしたいのと、僭越ながら思うところを記しておきたい。

先ず絵画はバランスの芸術である。構図のバランス、色調のバランス、フォルムのバランス、ヴァルールのバランス…美術史上どんな自由奔放な絵もこの調和を得たものが造形的価値を帯びる。かつてオリオンさんは「誰か黒の使い方をおしえてくれませんか」とネットで呼びかけ、私が「黒を多用するものとして…」と応えたのが出会いの始まりである。

黒は確かに扱いの難しい「諸刃の剣」である。間違うと、暗鬱な、活気のない、くすんだものとなるが、画面の落ち着き、詩情、品格、トーンの繋がりは黒抜きでは考えられない。この黒を含めた無彩色を原色と混色し、その色調で画面全体を支配させれば雰囲気ある画調、独自の世界が開けそうな気がする。かの佐伯祐三、シャガール、織田広喜などみんなそうである。今回の作品は、原色を並置させするものが多いが、色味の強い原色は、計画的に使わないと時に殺しあう。

さて最後になるが、医師と画家というのは、一方は理知、一方は感覚をベースにするメティエ(生業)であり、その社会的信頼感や生産性も両極端な位置にあるのは周知の通り。ところが、この両者は意外なところに共通点があった。実はそれぞれのメティエに係る「守護聖人」が同じなのである。「聖ルカ」というキリスト教四福音書記者の一人がそうである。それは、聖ルカは医者であり聖母マリアの肖像を描いた画家でもあったというところに起因する。中世ヨーロッパの画家組合(ギルド)は「聖ルカ組合」と名乗ったし、現在「医家芸術倶楽部」の顧問である日野原重明先生の「聖路加病院」も聖ルカから来ている。このように、医術も絵画も人類最古の由緒あるメティエなのであるがもう一つ、この括りは単なるかの聖人の「兼業」の因縁に留まらず、いわば人間存在の感知両面に直接関わるものというキリスト教的認識の表れではないかという気がする。

 オリオンさんはこうした因縁を地で行く、「医芸両道」を長く歩んで来た。人間の「負」の部分を治療し、さらに「正」たる世界に誘う、この結びつきの実践者として、今後も精進するだろう。


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