2015/1/18

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「大塚薬報」  H24/12月号 夢中人

「我絵画を愛す!」


収載されたものの原稿



【我絵画を愛す!】 白矢勝一

私は現在、医師、歯科医師、薬剤師等医療関係者で構成する「日本医家芸術クラブ」という芸術・文化に関わる全国組織の美術部の部長を仰せつかっている。同クラブには他に文芸や邦楽、洋楽、写真、書道などがあり、勿論各々の本職は医療関係であるが、それぞれに関わる姿勢は単なる趣味的同好の士の集まりを超えた質的充実を示しており、その道の専門家というべき人も輩出している。

後述するが、私も子供の頃から絵が好きで、現在に至り医師としての生業と共に絵画は大きなライフワークとなってしまった。

早いものでもう10年近くになるか、地域文化の振興に寄与せんとの志をもって東京小平市にある医院に併設して「シラヤアートスペース」というギャラリーを建設した。最近では絵画のみならず、医家芸術のコンサートを含めた音楽やいろいろなイベントにも使われ、現在日本医家芸術クラブの事務局も置いている。

同クラブは、長い歴史があり、昭和32年から機関誌『医家芸術』を発刊、美術展、写真展をはじめ、邦楽祭やドクターズファミリーコンサート、書道展など、芸術各部門にわたり活動を続けてきた。発表の場も前述のアートスペース以外に、銀座のギャラリーや公共施設のホールなど本格的であり、私も美術のみならず、洋楽部にも所属し、最近はギターの弾き語りもするようになった。このクラブで多くの芸術に親しむ先生方と知り合えたのは幸運であった

「会員になりたいが自分は医療関係者ではない、【患者】の資格ではダメか?」

という笑い話の御紹介とともに、これを機会に是非当クラブへ御参加頂くよう日本中の医療関係者に呼びかけたい。

次に、この医学と芸術という、一見別世界にあるような両者が、何かと因縁を持って絡み合ったという事実を私の周りから拾ってみたい。

我が日本医家芸術クラブの初代の委員長である式場 隆三郎先生は、かの山下 清を世に知らしめ、ゴッホもその精神医学の立場から研究をした人として広く知られている。他に、シュールレアリスムとフロイト等精神病理学との関係にもあるように芸術家の精神の問題はその作品と関連してしばしば論じられてきた。画家佐伯祐三のそれについても日本病跡学会でも取り上げられている。

私はその佐伯祐三好きが昂じ、2012年『佐伯祐三 哀愁の巴里』という本を共著上梓した。佐伯は晩年結核に精神異常が加わり、森を彷徨し行方不明となるが、彼を探す友人の一人として登場するのが宮田重雄という人である。彼は医者であり、後に医家芸術の会員となる画家でもあった。

また佐伯というと、その北野中学時代の友人であり『佐伯祐三』の著作もある阪本 勝がいるが、彼は私の故郷兵庫県の知事を二期務めた人で、その実家も私と同じ眼科医であった。阪本はその後東京都知事選に立候補するが、その相手というのが日本医家芸術クラブ第三代委員長の東 龍太郎元東京都知事というのも何かの因縁だろう。

因縁めいた話は他にもいろいろあるが、「日本医家芸術クラブ」という存在そのものがその繋がりの象徴ではないかという気もする時がある。

我が日本医家芸術クラブの顧問をされている日野原 重明先生の「聖路加病院」の語源は「聖ルカ」であるが、聖ルカは、自らそうであった故に医者と画家の双方の「守護聖人」とされている。このエピソードに基づけばその因縁は2000年近く前まで遡ることになる。

かの画家レオナルド・フジタ(藤田嗣治)の父親である藤田嗣章は、これも医学と文学の双方に跨る森 鴎外の後任の軍医総監であった。軍医総監とは軍医のトップであり兵隊階級では中将相当の超エリートである。フジタは、その「戦争協力絵画」が戦後批判の矢面に立たされ、逃げるように日本を去るが、良くも悪しくもその経歴と名声は彼の家庭環境とは無縁ではあるまい。

私も子供の頃父親に「絵描きになりたい」と言った時、「それでは食えない」と反対された。他に「絵師になりたい」と言ったのを「医師か?」と聞き違えられた中原悌二郎や、「美術家になりたい」と言ったのを「武術家か?」と返された青木 繁など、今も昔も凡そ絵描きなど職業選択としては論外なようで、研究所や美術学校などアカデミーで学び、「食えない」職業に就こうとした者の何人かは、家庭的にはある程度裕福で、教養ある環境に恵まれていたようである。

ともかくも私は、親がデッサン教室に通わせてくれたし、医学生の頃は美術部に入り油絵を始めた。医師になると忙しくて絵を描くことなどできなかったが、勤務医生活の後開業、ようやく絵が描けると思った。しかし、スペインに行って、ベラスケスの描いた『王女マルガリータ』を見てしまった。その見事さに絵を描く気をなくしてしまった。とてもそのような絵は描けないと思ったのだ。ところがあるとき件の佐伯祐三の画集を手に取り絵の本質を見たような気がしたのである。佐伯祐三の『人形』である。誰にも描けそうな絵だが魅力がある。これなら自分にだって描けると思えた。

「絵は個性、下手でもよい、その人が真剣に取り組めばいい」との佐伯の言葉。

再び絵を描く気になった。

爾来佐伯祐三についてはその作品のみならず、作品の背景にある思想や生き方、生い立ちにも関心をもつようになった。その過程で本邦で出版された佐伯関係の本はほとんど手にしたし、佐伯の足跡を追っての渡仏、「佐伯祐三贋作事件」との遭遇など、諸々の経験をさせてもらい、それが件の出版に繋がったのである。

さて最後になるが、本年7月、東京新宿の京王百貨店に於いて「白矢勝一油絵展」を開いた。個展は盛況で65点も作品が売れた。個展では「一番気に入った絵から売れ」と言われ、その通りにしたが、二度と描けない絵を手放してみると、なんとも言えない寂しさ。なんとか同じ絵をもう一度描いてみたいと思う。

個展に合わせ、画集も発刊した。描き溜まった500余点の中から200点ほどを選抜したが、個展も画集も長い創作活動の「けじめ」にはなったが、反面未だ「旅の途中」の感あり。

今後も何某かの目標を据えて、切磋琢磨したいと思っている。

(医療法人社団 白萌会 白矢眼科医院 院長)


以下 雑誌より


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