Since 2006/07/14

  し  け ん ど く は く
突然、芸術のフラグメントが沸々と現れてきます
バラバラなフラグメントを機を見て テーマ化整理
  し  け ん ど く は く
私見独白」 トップ

佐 伯 祐 三 編


2006/08/15






  「大正十年三月二十六日、佐伯の弟の祐明が、大阪府淡輪の結核療養所で死去する。弟を看取ってきた佐伯の帰京は四月三日遅くとあるから、藤根がいうのは、佐伯が帰阪する前のことである。帰ってきた佐伯は吐血していた。結核と見せ掛けるつもりだが、自傷であることを周囲に見破られる。
だが、米子に見破られたくらいでは、佐伯は悲劇の筋書をあきらめない。結核にさいなまれる薄幸の天才児という筋書を、なかなか変更しようとしない」 ・・落合氏のHPより


佐伯米子の文章

  弟の千代丸が胸を病んで亡くなりました。その最後の頃、祐三は少しの間見舞いに行っていたのですが、東京へ帰ってから夕方になると微熱が出るようになり、その上、蓄膿症の手術を受けましたが、それ以来、身体の調子は悪くなり、ついには床につくようになりました。半年ほどして、どうやら快方に向かいましたが、病気で寝ている間に妙なことを考え付きました。それは自分の手で家を建てます工夫でした。


白矢

  耳鼻科の先生に当時の蓄膿の手術はと古い先生に聞いてみると鼻の穴を指差して、ここから突き刺し、排膿するだけとのことでした。佐伯が喀血したというのも、このヘンに関係しているかもしれません。


佐伯祐三の結核についての考察

  23歳の頃、結核で吐血したとして、当時30才まで生きることができるであろうかと呼吸器専門の先生に質問してみた。当時としては抗生剤もなく安静と栄養が必要とされ、喀血するということはかなり病状が進んでおり、野球などの運動は無理であろうとのことでした。 結核の診断は結核菌の検出が確定診断になるが、胸部レントゲン写真は普通の肺炎などと比べ、結核は特徴的な所見を示し、まずわかるとのことでした。 ヴィル・エヴラールに入院中に痰、喉頭粘膜、胃液などによる結核菌の存在を認めたのであろうか? レントゲン写真は撮られたのであろうか。 私は実は当時の精神病院でそこまで検査したか疑問に思います。最近ベトナムの病院を今回訪れたのですが、眼科に関しては器具も古く日本と比べかなりの後れを感じました。現在のベトナムと比較するのはおかしいかもしれませんが、当時のフランスのその精神病院にレントゲン装置があったかどうか。結核菌の検査をするような医師がいたのか?実は肺炎球菌などによる肺炎ではなかったのか。 家族歴や症状、患者の言葉だけで結核と診断したのではないか。 というのはそれまで元気に暮らしており結核には抗体ができていて発病しない状態であったと考えたほうが自然と思われるからです。 元来結核菌は弱い菌であり、弟が結核によって死亡はしているが、兄も祐三も元気でいた。ツベルクリン反応は陽性となっていたかもしれないし、胸にレントゲン写真を撮ればなんらかの影響を認めたかもしれない。しかし彼等はこの菌に打ち勝ち生きていたはずである。 佐伯に結核の症状を認めたと確定してしまうのには疑問が残る。 ヤチ子の結核については小児の場合、急に結核が悪化する場合があるのでこれについてはなんとも言いがたい。


彌智子の結核について

 椎名基二の文章

  留学中のある医学博士の言葉を信じ、危険がないものと思って、この子をお父さんと食事を伴にさせ、同じ部屋に起臥さしているうちに、何時の間にか感染し、レントゲンをかけて見たときはすでに遅く、取り返しのつかない病態に陥っていたのだ。ああ、博士!私が法律と裁判官を信ずるものだったら、彼奴を確かに殺人罪として起訴したであろう。


白矢

  この医師は佐伯の健康状態及び弟のことを知っていて、大丈夫と判断したと思われる。つまり佐伯には結核の発病はなく人結核をうつすことはないと判断したと思われる。 娘のレントゲン写真で結核と診断されたとしても(当時、そのレントゲンを見た医師がどの程度だったのか、ひょとして重篤な肺炎だったのでは)それが佐伯から感染したとは限らないのではないか。