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  し  け ん ど く は く
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私見独白」 トップ

佐 伯 祐 三 編



--- 各氏の話を披露しつつ ---
1927年(昭2 8 21  パリ着、オテル・ド・グランゾムに投宿後、オテル・パックスに移る
10 下旬  ブルヴァール・デュ・モンパルナス162番地のアトリエ付きアパートに移る
29  荻須、山口、横手、大橋がパリに到着し、佐伯のアパートを訪ねる
1928年(昭3 2  中山に教えられ荻須、山口、横手、大橋とともに、モランに滞在
3  病床につく
4 下旬  リュ・ド・ヴァンプ5番地に転居
6 20  未明にベッドから抜け出し失踪。クラマールの森で自殺未遂
23  エブラール精神病院に入院
8 16  逝去
17  米子のいたオテル・ド・グランゾムにてお通夜
18  ペ−ル・ラシェーズ墓地で火葬され、仮埋葬
30  ヤチコ没
10 31  米子帰国

落合氏の場合

3月13日

佐伯が周蔵と別れたのが推定2月13日で、リュ・ド・ヴァンプ5番地に転居 米子が朝日にこれで押し通したのは佐伯の不審死の真相を隠すための必要から。引越しの理由についても米子と荻須は口をそろえて「家賃の安い家に移り、滞在期間の延長をはかったといいはったのは、未遂に終わった。別居生活を隠すためであるが、画学生仲間はこれを鵜呑みにした(落合 引越し後の離別求める米子の見栄)。

3月14日?

転居後佐伯は正式な別れ話を米子に切り出し、一人でモンマーニュに写生旅行にでる。「3月17日やから今日でモンマーニュに来て3日になります。」とある。3月18日命運尽きたり。右手が死んだ。我れ、クニにもどるべきや。妻 この巴里に染むれば 我一人にて戻[る]べきこれも修業のうちか。なれば 今日も写生[に]逝く。これ惰性か。来られたし。来られたし。

    佐伯祐三 一九二八年三月十八日

3月下旬

医師が巴里を立たれてから28日過ぎました。あれから毎日8時には写生に出ています。落合 第十章 天才卒然と逝く※まず日付の推理。周蔵がパリを発ったのは二月二十日ころ(前章参照)。とすると、その二十八日目は三月二十日ころとなる。モンマーニュへ行ってきたとあることも、筋が通る。次に、発信地。5RUE DE VANV とあるのは、荻須が見つけてきた家である。朝日晃氏の作成した年譜には「四月下旬、リュ・ド・ヴァンヴ五の西向き四階三部屋の家へ越す」とあるが実は佐伯は三月十三日に引っ越していた。世間体から周囲には、四月下旬まで隠していたのである。「今頃はいつもひとりなので」とあるのは、米子が荻須のアパートに行ったきり、ということ。ひとりで写生行なら一見元気のようだが、「今日で命運尽きた」とは、ただならぬ文言である。右手のしびれ、目がよく見えない(*)、という症状の物語るものは何なのか。

 

* 砒素とLinezolido   (白矢 注)

神経眼科のセッシヨン。抗結核薬のエタンブトールが眼障害を起こすことは昔から知られている(これは実際よくある話で、私もEBを中止するように内科のドクターにお知らせしたことが何度かある)が、この他「あまり知られていないが重要な薬物の副作用」という話があった。

Cisplatine

白金製剤。頭頚部、肺、婦人科、泌尿器科領域の癌ー>難治性視神経症

Tamoxifen

乳癌ー>網膜症 視神経症

Amiodarone

強力な抗不整脈薬

Linezolido

合成抗菌薬ー> 比較的可逆性視神経症

Viagla

AIONの危険因子 個人輸入などで流通

ここで一症例が示され、Linezolido長期投与による四肢末端の知覚麻痺、視野欠損について述べられた。佐伯祐三が砒素によって視力障害、右手が死んだという四肢麻痺を起こしたか、またそれはどの程度の砒素の量によるものか、ヤチコの症状は砒素によるものか検証の余地がある。

 

 

山田新一(光風会理事)の場合  『「木」昭和485月号の「この佐伯祐三」より』

リュ・ド・ヴァンヴ。アベニュー・ド・ベンからちょっと入ったところです。いまそのとおりはありません。モンパルナスの大きい広場ができたために取り壊された。で、発病したのもそのアパートですし、クラマールの森へ明け方脱出したのもそのアパートからなんです。それでわれわれも、泊り込みで看病するのにへとへとになりましてね、これはたまらんということで、入院させることにきめたんです。

ところが、病気で入院させるというときになって、奥さんの米子さんと色々相談したら、金が無いんです。その点で佐伯はよく間違えられましてね。何年か前にも{芸術新潮}に大久保泰氏が「悲運の画家佐伯祐三」というのを書いていましたけれど、たいへんミゼラブルな生活をして死んだように書いてあったけれども、そうじゃないんです。佐伯の生家の光徳寺、非常に豊かなお寺で、アトリエも建ててもらったんです。ただ、佐伯は大変な、奇妙な浪費家でみんな使っちゃてカネがなかったんです。で、ほうぼう病院を探しました。いまなら日本人も理解するんでしょうけど、フランスの病院変わっているなァと思ったのは、タダか、高いかなんです。いまの日本と同じように社会医療制度がすすんでいますからね。追い込みのおおぜいいる部屋に入って、かってに診療してもらうんだったらカネは要らない。ところが一部屋占領するとなったら非常に高い。当時東大病院あたりの入院費が一日3円か4円、いい部屋がせいぜい5円ですよ。そのときに100フランでした。およそ9円です。それにはびっくりして、もうちょっと安いとこないかというて、ずいぶん探して見つけたのが、最後の病院です。これは美しい病院でした。庭が広くてね。佐伯の個室も広くてシングルベッドに一人寝ていました。私は佐藤淳一博士といつも一緒に見舞っていました。この方はなくなりましたけど、東大の医局長をしていた内科の医者です。なくなった娘さん弥智子も佐藤博士が最後まで見られた。佐伯が2度目の渡欧でパリに着いたのが9月、アパートで病床についたのが3月の終わりか、4月の初めにパスツールにいた中村拓博士が診察に通ってくださった。ヴィールスのたいへんな大家で、今東京でご壮健で、いつもお手紙いただきますけど。その先生をあるとき、佐伯がぶんなぐったんです。起き上がってね、「なんや、このヤブ医者、中村めェ!」(笑)。それであとは佐藤博士が見てくださることになった。しかし、佐伯は、入院したその日から飲食一切を拒否しました。何を食えと言っても、何を飲めと言っても拒絶したんです。ブドウ糖の注射だけで一ヶ月もちこたえた。このことはどの本にもあまり書いてありませんけれど・・・。アパートで寝ていたときクラマールへ脱出して、首をつって、助けられて、そのあとわれわれは閉口して入院させたんですが、それからあとというものは、絶対食べることを拒否して、自殺したといえますね。ですから、なくなったときに、私、彫刻家の日名子君を連れて、病院へタクシーを飛ばしたんですがね。日名子君、それ見て、もうコワがって、コワがって・・・。で、木下勝冶郎君がデスマスクとったとかなんとかいうてたけど、あれはうそです。誤り伝えられている。食べ物を拒否して死んだミイラみたいな姿と言うのは、怖いですねェ。私も怖かったけど、日名子君は一目散に逃げました。もうかんにんしてくれいうて。 (以下略)

 

(白矢)

上記「この佐伯祐三」という対談録(山田抜粋)から佐伯の自殺説を支持する。「この佐伯祐三」をできるだけ書き出してみよう。佐伯が米子の社交性を男女関係まで考え心配している文章があった、この辺に関して、山田らはそんなふうには考えていない。佐伯の周蔵、千恵子へ手紙、救命院日誌は落合さんも書かれているが人の目を意識して書かれている。「自分はかわいそうな人間であり、被害を被り、助けを求めている」救命院日誌もそういう目で見てみると、佐伯の人格異常、精神的なゆがみが見えてくると思う。佐伯は被害妄想を膨らませ、精神異常をきたしたと思われる。ただしその彼の言葉には真実も含まれていると思う。

ここで昭和3年「みずえ」の「佐伯祐三君を思う」在巴里 山田新一を簡単に抜書き紹介する。

 

『「佐伯祐三君を思う」在巴里 山田新一』より

6月4日巴里到着の日、モスクワから電報を打っておいたのに来ない、病臥2ヶ月と聞いて見舞う。「いけない」死相と言うべき影がただよっている。彼はあまり多く語らず南仏へでも行って養生したいというようなことを言っていた。その後彼の病は日一日悪くなるばかりで一種半狂乱に近い憂鬱症を併発した。病気への絶望と、一日も早く回復して絵が描きたいという激しい焦慮との混乱からである。ついには夜中に起きて暴れたりするので米子夫人も耐えかねて自分をその取り押さえ役として泊り込んで看病してくれと使いをよこされたのでそうした。

 

(白矢)

だが、それもおよばず6月21日のクラマール事件となる。上記の文章は落合さんも山田だけが正しいとしている山田の証言。絶食はエブラール病院に入院して始まる。

 

『昭和四十八年の文章』

「なくなった娘さん弥智子も佐藤博士が最後まで見られた。佐伯が2度目の渡欧でパリに着いたのが9月、アパートで病床についたのが3月の終わりか、4月の初めにパスツールにいた中村拓博士が診察に通ってくださった。ヴィールスのたいへんな大家で、今東京でご壮健で、いつもお手紙いただきますけど。その先生をあるとき、佐伯がぶんなぐったんです。起き上がってね、「なんや、このヤブ医者、中村めェ!」(笑)。

 

(白矢)

それであとは佐藤博士が見てくださることになった」日本人の医師がついているのにフランス人の看護婦が注射するというのもおかしな話で、説明がつかない。

また文面から弥智子はこの時点では「すっかり神経の強い子」とあるが、病気とは書いていない。「とても弱い身体と子供を持つ者の身には通いきれませんので」は自分が身体が弱い。また幼子を持っているといっているだけである。これが七月三十一日の手紙である。八月二十日の山田新一の手紙の「目下弥智が結核喉頭炎の上に髄膜炎を併発して一両日中が危険であるから」から弥智子八月のいつからか結核になったことになる。

 

『昭和三年十一月みづゑ』

六月二十一日の暁方六時ごろ病室にいた自分と米子夫人とが真の五六分仮眠してしまった間に病床を脱け隣室に交替で寝ていた二三人の友人たちの枕をも越えて脱れ去った。全く彼は脱れ度かるたらしいのである。そして彼はパックスホテルに於いて米子夫人宛ての遺書を認め、クラマールのキャフェで自分宛の遺書を認め、クラマールの森に死に場所を求めたのである。幸いにして目的を果たさずしてその日のうちに元の病床へ連れ戻されたのであるが、四十度の熱と二ヵ月の病衰とを持ってしたこの奔走は彼の病をますます重くしてしまい、その憂鬱症も重くなるばかりであった。

 

 

中山巍(たかし)の場合 『昭和4年1929年 記』

モラン写生旅行後、彼は仕事が行きつまって苦しんでいることを度々語っていたが田舎に行って描いてみたいと言い出した。巴里から一時間少し位でいける美しい村とホテルを教えておいたら間もなく米子夫人と同伴で他に三四人の同僚と出かけていった。そこで彼は一日に三四枚も描き続けていたのだ。或る日私がルーブルに行ったら偶然彼夫婦にあった。彼は田舎でも仕事について苦しんで、急にルーブルを見たくなったので画布補充かたがた巴里に二三日帰って来たという。仕事ができないことをまた語ったが余程苦しんでいたものと見える。いよいよ田舎を引き上げてきたとき私に見せたものの中で二科展出品の「一軒家」が一枚だけ気に入っているのだと言った。この旅で米子夫人は多数の傑作を作った。良い素質をダンダンと延ばした、佐伯も私もそれを喜んだ。昭和3年初から6月の佐伯について。いよいよ田舎を引き上げてきた時、私に見せたものの中で二科展出品の「一軒家」が一枚だけ気に入っているのだと彼は語った。この旅で米子夫人は多数の傑作を作った。よい素質をダンダンと伸ばした。佐伯も私もそれを喜んだ。その頃佐伯の体は弱って見えたがある日小雨の降る寒い路地で仕事をしたのが風邪だといって床についた。(3月末か4月はじめ、中山はイタリーに旅をする)巴里に帰ってみると佐伯はヴァンプの小さいアパルトマンに移っていた。病気をして引越しをするのが気がかりであったのだが、別に体に障りもしなかった様だし大分具合も落ち着いていた。ところがちょっとしたことから風邪を引いて衰弱の度を増していった。林、川瀬、山口、横手、荻須、椎名が親身になって親切をつくした。佐伯の症状はすすんでいくようだったので皆心配した。時々息苦しくなったりした。(ある夜半これに苦しめられて米子夫人は一人で医者探しに・・フランス医の行った注射の液の分量が日本人に多すぎた為だと言われているが佐伯は急に発狂状態に陥った。その発作時は実にすごいものだったと言うことである。米子夫人だけではとても佐伯の狂乱を静めることはできないので山口、横手、荻須3君は毎夜詰めきりで看病した。ちょうど山田新一がシベリア経由で巴里に着き ・・・ある午前、ふらふらと佐伯が寝室からでてきて、ぽつりぽつり、病気の苦しいこと、妻子を思うことなどを訴えた(要約)

 

(白矢)

中山巍の証言や山田の言葉と対象させて千代子への手紙を考慮すると無理があるように感ずる。 中山巍や山田新一のいうことに当然真実が含まれているはず、これと佐伯の残した手紙や日誌の日にちおよび住まいをどのように整理するか、大切だと思います。中山巍の次の文章。

 

『米子の不思議』

この旅で米子夫人は多数の傑作を作った。よい素質をダンダンと伸ばした。佐伯も私もそれを喜んだ。これはモランのことであろう、不思議に思うのは米子は佐伯と巴里の思い出を数多く書いている。ところが自分が絵を描いたとしているのは、アルルの跳ね橋のことだけで、モランについて一言もしゃべっていない。またモランで描いた米子の絵は本来残っていてもよさそうである。しかし佐伯のモランには米子作はないと私は思う。今回手に入れた記念すべき画集にそのヒントがひょっとしてあるかもしれない。モランの寺が何枚も描いてある。

 

 

前田寛治の場合  『前田寛治への3通の手紙(中央美術 昭和三年10月号)』

 

(白矢)

下記に示す手紙は佐伯の亡くなった同じ年に書かれたもので、この3人の記憶がまだ一番しっかりとした時に書かれている。米子の文章で意味がよくわからないところがある。「すっかり神経のつよい子になってぇしまいましたし、度々佐伯と同じ位の間病気致しましたので弱らせました。今胃腸を悪くして、ねているのが治ればすぐにも遠い病院のそばへ引っ越してまいります。」フランス人の「看護婦」という話は後でフランス人の「医師」と後年かかれているものもある。「中村さんのおっしゃるには一のものを十したそうです」...このときの主治医は中村博士だったか?

 

鈴木千久馬からの手紙(六月二十四日付)

佐伯君が重篤なので驚いている。先日先日一晩行ってみたが気が狂ったような病態だ。しかしはっきりわからない。坂本博士の話では普通の神経衰弱とは違うとのことだった。中山君が帰ったら委しいことは君に知れることと思う。

 

(白矢)

この手紙から六月二十三日に佐伯は興奮状態にあり、医師から見ても精神異常と感じられた。

 

米子からの手紙(七月三十一日付)

佐伯のことはお会いになる中山さんにおたづねください。今はヴァンサンヌからもっと遠いビール・エブラールという病院に入って、淋しい異国での生活を暮さねばなりません佐伯をいくら祈っても力の及ぶ限りのお友達のご親切も私の看護も及びませんでした。これで丁度一月と1一週間になりますがふとした風邪がもとでなほり切らぬうちに、葉をぬきぶりかえしてからは、悪い病気になったと思ひ、私も心ひそかにパリでの最後を覚悟いたしましたが、博士方に診ていただいた様子では決して重篤ではないという事がわかりまして、力を恵まれて一生懸命に養生しました甲斐あって、中山様のイタリー旅行の末頃中村博士にもう起きてよいと申されたときどんなに喜んだでしょうその日に急に変わった機構に弱っていた身体をまた不幸にも風邪をひきました。それにすっかり力を力を落として神経衰弱のようになりました。その上フランスの看護婦が私の止めるのもきかず沢山の分量の注射をし過ぎました。中村さんのおっしゃるには一のものを十したそうです。その夜急にひどい興奮に陥ってあとはめちゃめちゃになりました。六月二十三日に入院いたしまして、その後はまだ何ののぞみももてません。今弥智子がやはり手当がたりなかったり病人をながい間みせていたりしたためすっかり神経のつよい子になってえしまいましたし、度々佐伯と同じ位の間病気致しましたので弱らせました。今胃腸を悪くしてねているのが治ればすぐにも遠い病院のそばへ引っ越してまいります。今私のいるパンテオンから悪くするとゆきかえり六時間もかかるところでとても弱いからだと子供を持つ身には通いきれませんので家をそんな人里はなれたところへ見つけました。そして山ごもりをするつもりです。淋しさか悲しさは今の私には何のなんのと思います。

 

山田新一からの手紙(八月二十日付)

バンサンヌの森の近くヌイのメイゾン・サンテで佐伯死す。友無く米子夫人又臨終に間に合わず唯一人である。十四日午後佐藤博士同伴小生が見舞ったのがこの世に於ける最後の訪問者だった。其の時「有難う。すまなかったー」と唯二言だけであったが、それは今考えると友人全体への最後の言葉であったと思われる。十八日午後三時ペールランシエズの墓地で火葬の上埋葬した。目下弥智が結核喉頭炎の上に髄膜炎を併発して一両日中が危険であるから米子夫人勿論手紙書くことができず小生又多くを記することができな。

 

 

伊藤廉の場合    『昭和十年の記』

 

スペインの旅から帰って佐伯君に会ったのはモンパルナスのアトリエでなくリュ・ド・ヴァンプのアパルトマンであった。(白矢 山田によるとこのアパルトマンは今はない)六月である。製作していて雨にあたり風邪を引いてから身体がよくないことを聞いて驚いていつた。すでに私がスペインにたって間もなく病気が始まっていたことを知らなかったのである。興奮して困るということであったし、或いは発狂の疑いを持ったりした。それでパリ来てていられた精神科の坂本博士に診てもらったが、その時には「俺は狂人ではない」といって怒った。フランスの医師がフランス人並みの分量で注射したが、日本人には適量以上だったので、それが興奮の原因だったといふことだったが、二十日一人で部屋を抜け出した。クラマールのカフェから米子さんに出した手紙がついて、あのムードンへも続く森の中へ行ったらしいということの見当ははついたが夜に森を探す術も無くともかく、できるだけ多くの人々を集めて置こうというので、林と二人で井原君や鈴木君のもカフェ・ロトンドに来てもらうようにたのみ夜の明けるのを待っていた。パリの六月は三時を過ぎれば空は白むが、自殺の心配でその三時になるのに苛苛した。もう死んでいるのではないかと思うと堪らなかった。警察の方へ捜索願いはしたし、どうにも手のほどこしようもないが、何とかならぬものかと考えても仕方がないことを時々繰り返し言い合った。三時近くなって、知らせがあった。サン・クルーの森の中で倒れているところを見出され警察署が保護しているというのである。いっぱいの水を前において座ってそれに手を合わせ拝んでいたと聞いて瞼があつくなった。首に傷があったので自殺をしそこねたらしい。... 

 

 

 大橋了介の場合   『昭和十二年3三月の記』

 

モーランで二週間、同じホテルで生活を共にし勉強した後輩の山口、荻須、横手に私の四人が代わる代わる米子さんを援けて看病に力めた。医者は毎日来た。そして或る日の注射後、佐伯さんは手足延ばしたり縮めたりする運動みたいなことをし始めた。皆は注射の量が多すぎたものと決めた。次に滋養物が足りないと叫びだして肉汁をやたらと飲み、酸素吸入なしでは苦しいと言う様になった山口、荻須君は寝泊りした。次に毎日何回となしに画道への愛着と死の恐怖を口走った。皆が変だなと心に思ったのはこの頃からであった。米子さんの心からの優しい看病と惨ましさを見ては皆泣いた。特に死の恐怖を訴えられるときの米子さんの心中は!そしてこの惨ましい光景を弥智子さんに見せまいとする心遣い

皆は米子さんの身体も注意しなくてはならなくなった。こんな惨たんたる数日が続いた或る朝、佐伯さんの身体が寝室から脱け出していた。ひと時も油断していなかった米子さんや、禁中押し切った山口荻須の両君に他にもう二人、これ等の人たちが誰も気づかなかったのだ。(略)

直に捜索願いは出され、日ごろから佐伯さんが憧れていたセーヌ川を皆は思ひ思ひに黙って歩いた。やっと昼過ぎになって、佐伯さんが早朝昔居たことのあったホテルに現れて、パトロンヌに五法借りてクラマール行きの電車に乗ったことが知れた。ある気持ちのよい日に歩かして大喜びしたこの病人がクラマールの森へ突進した。その留守に近くの警察から見付かった知らせがあった。米子さんと林氏と、タクシーの中の三人は無言で只無事な姿の佐伯さんを祈っていた。車はブローニュの警察についた。ここに佐伯さんは保護されていた。(略)

電車を降りた佐伯さんは縄を買って奥の知れない森に入った。衰弱しきった身体はかろうじて縄をかけるだけの力しかなかった。幾度か落ちてついに起てなくなった。板の間にの一室に、一合壜に水を貰って胡坐をかき、拝んでいた佐伯さんの姿はもう普通ではなかった。健気な米子さんはいつものように護符を拝ませ、御両親の名をとなへて気を静めさせて、車に乗せた。その晩また皆の寝静まるのを待って脱けでようとした。翌日米子さんと椎名先生に守られて病院に入った。これが佐伯君の見納めであった。

 

(白矢)

 

医師は毎日来たとあるが誰のことか?また今までの友人の文章でいったい誰が真実を話しているのか?また佐伯のクラマール事件の日、誰がアパルトマンにいたのか?注射は誰がしたのか?注射の量について、ここでは「皆は注射の量が多すぎたものと決めた。」となっている 

 

 

 山口長男の場合

 

昭和三年三月初旬ピリエ・シュル・モランに佐伯一家と友人たちと一週間絵を描き、カンバスを使い果たしたので、皆でパリに戻る。その一週間後またをモランですごす。これからモランに1週間、パリで1週間、モランで1週間、計3週間、帰ってきたのは3月の終わりか4月初めと考えられる。モランから帰ってきてからのこと。それから2ヶ月の佐伯さんは仕事の悩みであった甘さがなくなったように見える。佐伯さんの描くものはだんだん素直になり神経の鋭さを感じなんとなく鬼気迫る感がするようなところがあった。二,三ある玄関や扉などの作はその頃であったと思う。全く神経そのものの体当たりのすごさが見えた。

5月のいつ頃かだった。描きだしたら小雨くらいでは止めない佐伯さんが風邪をひいて少量の熱を出して寝たことがあった。そのころ、アトリエは高いので節約をするために古いアパートがあったのでリュ・ド・ヴァンプのそこに引っ越した。その頃から健康がすぐれなかったようである。

それからいくらもたたないで寝込んでしまった。8度あまりの発熱があり、続いた。佐伯さんも寝ていることと熱の気持ちの悪さやその他過労が現れたのかイライラするようになった。容態に気をもんでいたようである。

友人の医科の人が見舞っても気に入らず、仏人の医者があいそよくたいしたことないというのに却って満足気であったが、容態は一向に変わらず心身の消耗も目立っていった。一方今度は一人娘の弥智子が発熱し、二人とも同じくらい熱が続いていた。いつの間にかすこし遠かった私は泊り込んで時々帰るようになっていた。私らはもっぱら看病役、他のものは度々見舞いや買出し役をしてマダムに協力した。それでも時折は気分のよい日もあったようである。或る日私にこのごろどんなに描いているのか見たいというので荒っぽいのを見せると黙って見て、もし出品をしろと言ったらこれを出すかと問われた。再三聞いた末私がどうしても出さないというと、そうかそれならよろしいと言われた。今もその意はわからない。

症状は益々悪く私は隣室にごろ寝するようになった。この頃の心細さに死を願うような言をはいたそうである。その或る日私らは早朝さえ起算が室から抜け出していることに驚かされた。わかるところを捜索して憔悴した姿のまま二,三立ち寄ったことはわかったが如何ともできず、その翌朝意外に遠いところに保護されている通知により他の人々が連れ戻した。現地に詳しい人が手配してパリ郊外の病院に二,三日後に入院を完了した。

 

(白矢)

あいそのいいフランス人の医師が毎日来ていた事になる。このフランス人の医師か、彼が連れてきた看護婦が佐伯に注射したとして、米子が中村博士が量が多いと言ったというのか不思議である。なぜならその場に中村博士はいなかったはず。佐伯と千代子との関係はこの山口長男の文章からありえることと考えられる。この文章では佐伯は5月頃まで絵を描いていたし、失踪するまで気も確かなときがあったようだ。 

 

『何故、モランに写生旅行へ行ったのか』

春になって彼は、村落や田舎風の家屋を求めてヴィリエ・シュルモランのたくさんのカンバスを運んびこんだ。彼は生々として、村の教会や村役場や農家の納屋、煉瓦焼窯などと取り組んだ。毎日二、三〇号のカンバスを二枚づつ描いた。パリの街のもののように、繊細で感覚的でなく、素朴な組立の強さと奔放な筆意が、一つの展開を示している。四〇号に描かれた農家の納屋は、白っぽく線描的に描かれている。鬼気さえ感じられる煉瓦焼窯は、単純な朱を主調としている。パリの街を描いた、細かな感覚的なものから鋭い大胆な方向への展開も、彼を満足させるものではなかった。佐伯はいつも自分の絵には不満を持っていた。二週間の奮闘は、彼を非常に疲労させた。ヴィリエ・シュルモランの二週間は、それにも拘らず、彼の、自分の作品の甘さを突き放して、一歩前進するのに役立ったと、私には思える。ある意味では、彼の第二の開眼を果たしたように考えられる。 

 

 

 井原宇三朗の場合   『「パリの佐伯祐三君」昭和43年』

佐伯君は発病後も、焦燥から無理な勉強を重ねたらしくそれが悪化に一層の拍車をかけた。その頃、後に金城大学の教授になった中村さんという医博がいて、美術仲間とも親しくしていたが、その中村さんが最初から佐伯君の治療に専念してくれた。後日中村さんの話では、最初は中村さんのいうことをよく守り、「早く治って、早く仕事を始めたい」と繰り返していたが、病気の進行と神経的焦燥とから、その「早く治りたい」がいつの間にか「早く死にたい」に変わって言ったそうである。それから大変で、食事は摂らない、窓から飛び出そうとし、紐類を捜すようになってから皆は慌てた。その上悪いことに、或る日来診の中村博士「おまえは俺が死のうとするのを邪魔するか」と、したたかに中村博士を殴りつけた。温厚な人であったが、「医師の忍耐にも限度がある」として治療を辞退してしまった。もうそうなると一刻も目を離すことができない。昼間はともかく夜が心配だから佐伯君と同級の渡邊浩三君や木下君、私など数人が代わる代わる不寝番に当たることになった。何日かはそれで事なきを得たが、佐伯君の同級生のS・Y君(山田新一のことだろう)もそれに加わることになり、ある晩「よし引き受けた」と前の人から引き継いだ。が、太った体で、胆汁質のS・Y君は一人になると間もなく居眠りをやってしまい、機を狙っていた佐伯君は難なくスルリと脱け出て姿を消してしまった。夜中の十二時ごろに私は渡邊君だったか鈴木誠君だったかに叩き起こされて駆けつけた。川口軌外君の住むクラマールの森のほうへ行ったらしい足どりまでは判り、何人かがそちらに飛んだが、雨も闇夜ではなんら得るところがなかった佐伯君が発見されたのはその翌朝の未明、反対側の森を出外れたところで牛乳配達夫が見つけた。首には痛々しい傷が幾条もついていた。

(略)

清水多喜示君が夫人の要請で早速デスマスクを採る用意を整えて病院へ飛んだが、数時間後しょんぼり帰ってきた清水君に運よくあったので聞くと、残念ながらすでに筋肉が硬直期を過ぎているので型が採れなかったという。看守さえ幾日も気がつかなかったとはなんとした事であろうか。ゴッホの死より何倍も悲惨である。

 

(白矢)

 

山田新一の弁。六月二十一日の暁方六時ごろ病室にいた自分と米子夫人とが真の五六分仮眠してしまった間に病床を脱け隣室に交替で寝ていた二三人の友人たちの枕をも越えて脱れ去った。山田は佐伯の親友であるがどうもポカをやってしまったらしい。佐伯のクラマール事件は人により言うことが異なるのは、佐伯一家を助けられなかったという友人たち一人ひとりの心の傷のため、真実と少しことなる表現をしてしまうためとも考えられる。里見勝蔵によれば佐伯は「死ぬのは何よりいやだ。死にたくない、と言っていた。而して、三十一歳になれば必つ死ぬーと口ぐせのように言った」そうである。(昭和三年みづゑ)佐伯は救命院日誌やパリ日記など自虐的な物語を書くうち、2重人格的のもう一人の自分が顔を出してきて引っ込められなくなったのかもしれない。また死後硬直が無くなっていたという事であれば、山田新一が佐伯の死の前々日八月十四日に佐藤博士と一緒に佐伯を見舞った話「山田君!!えらい世話になったわ・・すまなんだ」というのは怪しくなる。

死後硬直の進展は環境温度等の影響を受けるが、通常死後2時間程度経過してから徐々に顎や首から始まり、半日程度で全身に及ぶ。30時間から40時間程度で徐々に硬直は解け始め、90時間後には完全に解ける。犯罪捜査上、死後硬直の進展状況から死亡推定時刻を割り出す場合があり、法医学的に重要である。また、死後硬直は死体があった状態により違ってくる。千代子との交際は佐伯も4,5月はベッドに寝たっきりではなかったようで時間的にも十分可能であるようだ。 

  「何故、モランに写生旅行へ行ったのか」という動機がとても重要な鍵のように思えます。画面に文字を描き込まなくなったのには何か理由があったのかどうかが気になります。また、郵便配達夫には何故文字を描き込んだのかも疑問に思う所です。

このことは非常に重要と思うのです。中山および山口は先にふれたので、ここでは、里見氏の証言を披露しましょう。

 

 

 里見勝蔵の場合  『昭和4年画家佐伯祐三』

 

佐伯が順調に仕事した時代の絵、又彼が好きでいた絵という絵を見ると、いかにも「佐伯」で満ち溢れている。佐伯に再開する様になつかしい。そんないい絵が無数にある。佐伯は仕事に行き詰まったときは、かって描いたような、安逸に逃れた絵もあったが、どん詰まりの苦悩のあまりにヤケクソで、グングン描きなぐった絵の中にも、ずいぶんいい絵がある。その一、モラン風景。佐伯にとってあまりに苦痛で、この絵をを見るに耐えられず、好きにもせず描きつぶしとし直ちに画室の壁にふせて、なほ数日後には屋根の上に投げ出して雨にぬれ、風の荒らすに任せてかえりみなかったといふ絵ーモラン風景ー。私はこの絵が好きでたまらないのだ。

この全画面こそ一部の隙間もなく、鋭敏な感覚と、強烈な生命で溢れている。尋常の力を以てしては動かない巨大石塊も、何かの具合で、より少しの力を以て動かす事ができるものだ。佐伯が苦しまぎれに腕力を振った時、偶然何かのケジメに当たったのか、この絵には佐伯異常の力がある。これは佐伯の絵ではない。この絵が佐伯のでなくとも構わない。佐伯の姓名よりあらゆる絵に卓越したこのーモラン風景ーの存在が何より有難いのだ。馬鹿、発狂者、動物が描いても、いい絵は真実にいい絵なのだ。而してこの絵は佐伯が描いたのだから全く驚嘆する。(略)

佐伯が好かなかったといふこのーモラン風景ーを私は彼の無数の作品の中で、第一に賞賛するのは、(略)

この絵に所謂うまい構図はない。いい調子がない。美しい色彩もない。而して線はでたらめだ。あらゆる美学の法則に違反している。美学なんかくそ食らえ。人の禅で角力とるな。一人のすぐれた画家、一枚の傑作が出れば、根底から破壊されてしまうではないか。構図なんか不必要だ。調子なんか問題ぢゃない。色彩なんか無くていい。只必要なものは生命だ。(略)

 

(白矢)

モランの絵は佐伯は気に入らなかった。今まで描いた絵とは違ったものだ。友人3人にも苦しんでいることを伝えている。しかし山口長男の文章にあるように「彼は生々として、村の教会や村役場や農家の納屋、煉瓦焼窯などと取り組んだ」実は佐伯は絵を描いているとき、全てを忘れている。苦労とか考えていない。もし考えて描くなら多作にはならないはずである。友人なら聞くでしょう。「モランに行ってたんだって。どうだった?いい絵は描けた?どんなところだった?」「いやあ、全然だめだった」学期試験前に勉強していても、全く勉強していないという心理に似ている。佐伯は自宅で友人と馬鹿騒ぎをいつもしている。妻や子供もいるのに、友人をたくさん呼んで食事会を何度もしている。こういうときは陽気で金に無頓着。一見、子供みたいに見えるが、かなり神経質で苦しい演技ととれる。

モランの絵は最後の「レストラン」や「扉」につながる絵でとても意味のある絵と思う。モランの寺の絵を佐伯は何枚も残している。未完成と思われるものもある。私もここに行ったとき、これを描きたいと思った。阿修羅さんのおっしゃられたように、いい景色がないと描けないと思う。しかしこのモランは絵になる。佐伯はいい場所を他の人に隠したかったのではないかと疑ってしまうほどだ。

山口長男は後輩、里見勝蔵は先輩、二人に対する言動もかなり違っている。この傾向は周蔵に対する甘えなどにも見られるように、プラスマイナスに大きな振動がある。もう一つ千恵子の手紙にも見られるように、大げさに自虐的に話すところが見える。

坂本勝著佐伯祐三、この本については落合さんも言及されている。坂本勝は佐伯の縊死事件を自殺ではないとしている。しかし本当のところ自殺と考えたくないし、こういう話は否定するべきと読める。彼はこの事件を詳しく書いている。この中にたくさんの注目すべき友人たちの話がある。泊り込んで佐伯一家を守ろうとした友人たちは、それができず、生涯そのことは大きな傷となった。米子が自殺でないと言い張れば、彼らはそれに同調せざるをえなかった。またそのつらい記憶は忘れたいという人間の生きるための本能のようなものが働く。自分の苦しみを和らげるようにつらい記憶は色あせていく。

佐伯は二重人格と見られるところがあり、自虐的人間を片や人知らず育てるようになる。それは救命院日誌を編集することでますます助長される。

昔から三十一歳で死ぬ、死ぬと人に言っていたこともプレッシャーになった。気がふれたように振舞っていたら段々本当におかしくなっていた。人に自殺すると見せかけて、人をおどかし、自分への関心を得る。しかし、半分本気だが半分は本気ではない。ではなぜ自殺したかったのか?これは救命院日誌に求められることになるのではないかと思われる。米子は友人たちの証言で佐伯とともに絵をかなり描いているようだ。ところがこういうことを書いていない。自分が描いたのはアルルだけだと言っているようだ。これはなぜか。佐伯死んだ後、米子は二人のペールラセーズに仮埋葬、その後マルセイユから日本に帰り、東京と大阪で葬式を行う。この間米子の経済状態はいかがであったであろうか。帰国にもお金がかかり葬式にも金がかかる。誰が彼女を助けてくれるのか。祐正は?実家は?佐伯の友人は?

たぶんお金の苦労をさせられただろう。彼女のできることは絵を売ることである。モランで描いた自分の絵を最初に佐伯作として出したかもしれない。それがうまく行くと祐三の絵を手に入れ、加筆して売り出した。これは生きていくためであり仕方が無いことであった。一度うまく行くと、贋作でも手を入れることができたであろう。とにかく彼女も食べていくのは大変だった。米子は救命院日誌を知っていたか?この辺はなやましいところである。 




--- 各氏の話を披露しつつ ---


佐 伯 祐 三 編

  し  け ん ど く は く
突然、芸術のフラグメントが沸々と現れてきます
バラバラなフラグメントを機を見て テーマ化整理
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