Since 2006/07/14

  し  け ん ど く は く
突然、芸術のフラグメントが沸々と現れてきます
バラバラなフラグメントを機を見て テーマ化整理
  し  け ん ど く は く
私見独白」 トップ

佐 伯 祐 三 編


2006/09/10





--- 落合氏 「佐伯祐三:調査報告」を元に多少の解析をしていきます。 ---

(http://www.rogho.com/saeki/aaa.html)

Vol 9 の関連個所の一部をこれより、くだきながら記す。

『周蔵手記(大正15年)「なぜかくも改訂を重ねるのか」佐伯の希望通りを記帳するのに、正月の5日までかかった。まことに奇妙な人物で、ずっと前に書いた内容を修正せよと求められ、また書き直しである。内容変更の要点は大正5年に出会ったときの状況をやや変更し、自分をより悲劇的に書き直した箇所が多く、また、自身の言動を批判的に形容する箇所も増えた。何のための変更かと思い質問してみた。「これは大谷光瑞に見せたものであろう。それを書き換えては、おかしなことにならぬか」すると佐伯は「大谷さんはこんなもんよまんわ」というだけで返事らしい返事もない。思うにこれは呉博士の言われるとおりで、これは佐伯自身のための記帳かもしれない。つまり、英語で言うプレッシャーを、自分にかける目的であろうか。』

 

(白矢)

救命院日誌を佐伯が書くとき、一応誰かが読むということを想定している。しかしこれを書いているうちに、現実と空想の世界が混乱してきた可能性がある。佐伯の書く文章は、自虐的で、より大げさに、書く傾向がある。これは他の手紙などの文章にもあてはまると考えていいと思う。

救命院日誌は落合さんのご指摘のように佐伯の小説である。この小説の筋書き通りとなりたかったのではないか。以下もう一度走り読みして、重要と思われるところを少し抜きだしました。

1)        佐伯は米子に絵を教えてもらう自虐的な文章を書く。

2)        分裂病の症状としてはあり得る。

3)        フランスでの制作の実態。

4)        佐伯は里見なる先輩の意向で、フォービズムの方向へ走り出した(これは絵とは自分しか描けない絵であるべきだということ)。

5)        佐伯の線(まず線が線ではない、紐のようなものである、つまりグニャグニャして)。

6)        佐伯は死にたいと思う自殺の形式を取り、それがそのようになるだろう

7)        あの夫人は一部の学生を煽動する

8)        佐伯の女性関係

 

Vol 6 より

「先生を存じ上げました時、家族は、そんな良い人が近くにいるのにと、残念がりましたは」などと言いながら、祐三の幼稚さを嘆く。問題は次の発言である。「主であることを まだ念頭にお入れになられていないのですは。でも先生ご心配なく。あたくしがきっと立派な画家にお育てしますは・・・何故って あたくしの方が 絵の事をよく知っているのですもの。あたくしね 河合玉堂先生に 南画を習いましたでしょ。でもそれより以前から 共立美術館という所の先生に北画を習っていましたのよ。北画という画は、とても技を要しますのよ。筆一本の力量で 絵が生きる死ぬ有りますのよ。 (中略) 「『救命院日誌』九月十二日条。要約。 山田新一が救命院に訪ねてきて、佐伯の心情が恐ろしいと語る。隅田川に多数の死体が浮かぶのを見て、佐伯が大喜びしたからである。「オモロイ。オモロイ。プカプカ浮ヒトル」と狂喜しながら川っぷちを走ったと、山田は云う。周蔵は、分裂病の症状としてはあり得ると話し、三十歳までには治るだろうから、山田に、友人であってやって欲しいと頼む。」

 

Vol 9より

「米子は、フランスでの制作の実態を語る。佐伯が下塗りをした上に、米子が図柄を荒々しく入れる。前にあるものを大きく、奥になるものを極端に小さくする描き方が北画の形だから、風景画は描きやすい。二尺×一尺五寸くらいの大きさが、一番描きよい大きさである。それに、奥行を作らないで、正面だけを描く方法もある。「オ店ヤサンナド 一軒選ビマシテ、正面カラ描キマスノ」 (中略) 佐伯は里見なる先輩の意向で、フォービズムの方向へ走り出した。自分の頭の中では混乱している間に、先輩によって新鋭らしい方向に旗を揚げたらしい。しかし、それは所詮二番煎じでしかなく、そうなると自分独自のものとはいえないから、独断を好む佐伯としては不満であろう。 (中略) 周蔵が佐伯の絵をよく見ると、まず線が線ではない。紐のようなものである。つまりグニャグニャして、力強く芯あるべきものが、曲がっているというか、立っていられない病人のようだ。一本の線を描くにも、自信がないということかも知れない。それとも、あれでも自分では芯を通しているつもりかも知れない。 (中略) 牧野が言う。鈴木はまた佐伯家にある絵を見て、いつあんなに描いたのだろうと驚いていた。米子は、下半身では到底貞節とは言えないが、佐伯にとっては最良の妻と言えるだろうケフハ 仰天スルコトガヲコッタ。管野敬三ノ妻君ガ 佐伯トノ浮気ガ発覚シテ 離別シタノデアル。 (中略) 男女のことは、まったく分からないものである。佐伯が云うに、ヤチ子は祐正の子で、それは夫婦喧嘩のときに米子が口走ったから間違いないと云うが、それも真相は分からない。大体、女性が子を孕むのに時間はかからない。生娘でもあるまいし、どちらのせいでもない。しかし、管野家にとっては一大事である。

 

Vol 11より

佐伯ハ 死ニタヒト思フ ノデハナヒ ノニモカカハラヅ、死ヌ恰好ヲ シナケレバ ナラナヒトヰフ状況ニ 己レヲ 追ヒ込ムデシマフ。望マナヒ ニモカカハラヅ、自殺ノ形式ヲ取リ、萬ガ一 サレガサノママニナル コトモアルダラフ。 (中略) (四)同日。薩摩の話に「以外なのだが、あの夫人は一部の学生を煽動する力があるのだ」とのこと。「煽動に再三説明を求めたが、適当なところでいいにしておけよ」とのこと。 (中略) (十一)二月十日。見舞ってくれた千代子の話を総合すると、佐伯はモランから何度も戻っていた。画布を取りに戻ったらしい。どうも佐伯は千代子に相当傾倒している。二人の仲が心配だから、薩摩に忠告したが、薩摩は放っとけ、という。本人が承知なら、大丈夫だろうと思って、帰えることにした。

 

(白矢)

 [救命院日誌を解く]で列挙した下記のものは驚くべきことだが、全て佐伯が何度も周蔵に命じて書き直させた佐伯の創作である。その中で 3)フランスでの制作 の実態は「馬の眼」と読み合わせる必要がある。また、これを頭に入れて佐伯祐三全集をじっくり見直すと「馬の目」が判って来るのではないか。米子は、3)フランスでの制作の実態 を語る。佐伯が下塗りをした上に、米子が図柄を荒々しく入れる。前にあるものを大きく、奥になるものを極端に小さくする描き方が北画の形だから、風景画は描きやすい。二尺×一尺五寸くらいの大きさが、一番描きよい大きさである。それに、奥行を作らないで、正面だけを描く方法もある。

 

Vol 9 より

「オ店ヤサンナド 一軒選ビマシテ、正面カラ描キマスノ」

 

Vol 10より

「第二次パリ報告」一月三日米子ハンと違う事 よう分かりました。ワシは馬の目やった。イシの云わはる通り、馬とハエの目です。それは、米子サンのような広い道に 添ったやうな画は 描けんと思いました。 (中略) 十月九日(ノートの後ろの方に記載)米子はんはやさしいから、俺に画を一から手ほどいてくれますけど、そいで俺のを大切に思うてくれますけど、やっぱり出来上がると、俺のはどこにも見えんようになってますわ。情け無いけど仕方おへんな。米子ハン。朝から夜までよう働かはるわ。俺も手伝うから忙しいけど、米子ハンに並ぶれば 俺は思案ばかりしてる。 (中略) 地の厚いカンバスは、北画の線引くとき、調子ええようです。手ごたえがあると、米子ハン ほめてますは。俺も練習して、ようなってきたら描いてみます。地の厚いカンバスは、北画の線引くとき、調子ええようです。手ごたえがあると、米子ハン ほめてますは。俺も練習して、ようなってきたら描いてみます。 (中略) ブラマンクの線も北画の線も文字もだめです。イシに会いたい。俺は馬の目や欠点を生かすこと。巴里といえば広告塔や。そやから一番に広告塔描いてみました。馬の目のワシの始めての作品です。米子ハンの描かはってる ブラマンク+ウイトイロ+北画の画も 俺の画やけど これは 馬の目だけの 俺の画です。ほんまにほんまに 俺の純粋です。 (中略) 千代子ハンに 広告塔のとヤチのと 見て貰いました。千代子ハンも 画を描かれます。自分のはちっともようない、と云います。パスキンいう人が先生です。ワシのは今迄の中で一番ええ、と云われました。おせじやろか。あなた脱皮できたのね、と云わはった。米子ハンの描く大きいもんと違うて 小っこいけど 画の中に大きさがある 云うて下さいました。 (中略) 確かに俺が描いてるけど、俺の画や荒へん。あれは俺が手伝うた 米子ハンの画や。米子ハンの天分と技の画や。まっすぐな線と きつい文字を組み合わせた 北画のええ画や。ワシの才能や あらへん。 (中略) 夜は米子ハン描くし 夕方に俺は写生に出ます。米子さんと歩いてる時にスケッチしたりします。ワシ気がついたんやけど 馬の目や。ワシは馬の目や。ワシは馬の目や+ハエの目や。 (中略) (洋裁師のデッサン)米子ハンと違って、ワシは写生せんと描けへんから 写生をするは仕方ないのです。米子ハンは写生の必要はないのですが、頭の中に余計に描いてしまうのやそうですが、ワシは写生して、翌日に油で画布にも写生する時もあります。写生(スケッチ)→水彩(鉛筆などのデッサン)→画布に油絵の具でデッサン→油で本描き という具合です。今日は千代子ハンの専属洋裁師描いてきました。  (靴屋のデッサン)米子さんは洋服のデッサンばかり描かはってます。絵附で使うてデザインしてはります。ワシのように 写生してデッサンして描くもんやない、云わはりますけど、ワシは写生がよう出来んと、ええもんにならへん。熊谷さんもそうや云うイシの話しに、ワシはやり抜く意地がはれます。 (中略) 今頃米子ハン 全然 画を描かんように なりました。描けんようになってしもうたようでず。荻須と俺に 技を教える事が しんどくなったんかも 知れまへん。俺に教えるのが アホらしくなったんかも 知れまへん。米子ハンの描かはった画は 四十枚はあらへん。俺は下手やけど、三百枚は描きました。米子ハンのもの 前において 毎日 ように描きました。尤も 馬の目のものは まだ十枚くらいです。ほんまの俺のものは そんくらいです。米子ハンは 何で描けんように なったのやろか。描けても見せんようになった と云わはってるようです。

 

(白矢)

「あたくしがきっと立派な画家にお育てしますは・・・何故って あたくしの方が 絵の事をよく知っているのですもの(Vol 6)」と自分自身が米子に教えられ育てられるように書き始め、米子に学ぶが、そこから脱皮するためにもがく自分を表現する。ここで私なりに「救命院日誌;をまとめると下記のようになる。

1)        奥になるものを極端に小さくする描き方が北画の形

2)        奥行を作らないで、正面だけを描く方法もある

3)        米子サンのような広い道に 添ったやうな画は 描けん。

4)        地の厚いカンバスは、北画の線引くとき、調子ええ。

5)        巴里といえば広告塔や。そやから一番に広告塔描いてみました。馬の目のワシの始めての作品。

6)        まっすぐな線と きつい文字を組み合わせた 北画のええ画や。ワシの才能や あらへん。

7)        ワシは写生せんと描けへんから 写生をするは仕方ない。米子ハンは写生の必要はない

8)        写生(スケッチ)→水彩(鉛筆などのデッサン)→画布に油絵の具でデッサン→油で本描き

9)        米子さんは洋服のデッサンばかり描かはってます。絵附で使うてデザインしてはります。ワシのように 写生してデッサンして描くもんやない

10)米子ハンのもの 前において 毎日 ように描きました。

 

尤も 馬の目のものは まだ十枚くらいです。ほんまの俺のものは そんくらいです。これを念頭に佐伯祐三全集、山発を見てみてみたい。

佐伯の初期の作品は美校で描くような絵であるが、生涯影響を残しているのはバックの処理である。これは個性を現し画面を統一する重要な要素である。第一次渡仏で絵葉書を見ながら描いたと考えられるものが多数ある。佐伯の描きかたは建物などを斜めに描くことに特徴が見られる。ブラマンクに会ってからは当分その影響が大きいがその後、線の重要性、色面が強調される。「奥行を作らないで、正面だけを描く方法」に関してはの作品は数多く見られる。3)米子サンのような広い道に沿った絵というのは、奥になるものを極端に小さくする描き方が北画の形に通じるものがある。これは広告塔にも見られると思うがどう違うのか私にはまだわからない。「ワシは写生せんと描けへんから 写生をするは仕方ない。米子ハンは写生の必要はない」と「米子さんは洋服のデッサンばかり描かはってます」これから佐伯のデッサンで直線で書いた裸婦は米子のものと考えると理解しすい。佐伯のでっさんは多くの線で描きいわゆる学生の石膏デッサンの延長のように感じる。最後の作品の「扉」、これを現場で見るとこの扉は周りの建物に囲まれている、また背の高い建物の一部である。佐伯は近視眼的に、ある景色の中からハエの眼のように一部分にのみ眼がいき、そこに美を見出した。こういうことを佐伯は自分で書いている。これは途中まで米子にも見せていたと見ても良いと考える。

救命院日誌で佐伯は米子に教わる形をとっている。落合さんにお聞きしたいのは、これだけ調べられたなら、私の持つ疑問をもたれはしなかったかということである。救命院日誌は周蔵が述べたように書いてあるが、全て佐伯の創作であるので、真実であったと勘違いしてしまうが、米子が本当にそうだったかということは確かめられないことなのである。内容は当時の現代作家について自ら語っている文章とも解釈できる。米子と佐伯はゴーギャンとゴッホのようである。ゴッホは写生をしなければ描けない、ゴーギャンはそうでない。ブラマンクの黒や線についての文章は佐伯が本来考えていたことで、米子に教えてもらった形をとっているだけと考えられないか?ユトリロやマチス、ドランについても佐伯の感想と考えるべきである。そう感じたから救命院日誌に書かせたと見れないか。創作者は佐伯である。落合さんのHP救命院日誌をそういう眼で読み返してみると、米子は佐伯にとってどういう人間だったか、米子はそれほど悪い人間でなかったのではないかと思えてくる。米子は佐伯と弥智子の遺骨を抱いて帰国する。その後荻須との仲はどうして続かないのか?確かに坂本勝の本には、佐伯の縊死事件について、米子と荻須の口裏合わせのような「荻須高徳の日記」が紹介されている。佐伯の自殺は無かったと言う二人。これにも少し言及されているが佐伯と弥智子の葬式の時、自殺などということは公開されなかったであろう。自殺や結核、精神病という言葉は当時隠されていたのではないか。米子の頭の中では、記憶は変わり別のものになっていた可能性も考えられる。米子は日本に帰ってきたとき、どうやって生活するか。佐伯の作品がすでにある程度高価に販売されることはわかっていた。彼女がなにか仕事ができたであろうか?誰か金銭をふんだんに与える人がいたであろうか?日本に帰ってきた時、荻須が助けてくれたのか?どうして日本に帰ったのか?佐伯、弥智がいなければパリで荻須と内緒で暮してもよかったのではないか。こういう疑問もわいてくる。






佐 伯 祐 三 編

  し  け ん ど く は く
突然、芸術のフラグメントが沸々と現れてきます
バラバラなフラグメントを機を見て テーマ化整理
  し  け ん ど く は く
私見独白」 トップ


2006/09/10