戸塚パルソ通信@メール 第160号
戸塚宿を行く(人物伝)
vol078
長沼の名を持ってきた鎌倉御家人長沼宗政
・長沼淡路守宗政(森戸果香筆、栃木県立博物館蔵)
■生没年:応保2年〈1162年〉生 - 仁治元年〈1240年1月2日〉没
■通称:五郎
■鎌倉幕府草創期に活躍
長沼宗政は、下野の豪族、小山氏の一族。
兄・小山朝政、弟・結城朝光とともに、源頼朝の旗揚げから参画して、有力御家人となります。
志田義広が頼朝に反旗を翻して挙兵した野木宮合戦で活躍し、その戦功で下野国長沼荘に所領を持ったことから、長沼の苗字で呼ばれました。
その後の源平合戦では主に源範頼の軍に加わり、小山党の活躍が賞賛されています。
さらに奥州藤原氏の討伐から、比企能員の変、畠山重忠の乱などを幕府方(北条氏側)として戦い、全国に地頭職を得ます。
有名なエピソードでは、畠山重忠の遺子の畠山重慶に謀反の疑いがかかった時、将軍源実朝の「生捕にせよ」という命に背いて殺害し、首を持って帰った、というものがあります。
激怒する実朝に「生かして連れてくれば、言いくるめられてしまうだろうから、打ち取ったのだ」と言い放ち、謹慎をいいわたされています。
エピソードを見るに、実朝が文官を重用し、また、母・北条政子などの女性関係者の言いなりになっていると感じた武断派の不満を代表しての抗議であるように思います。
小山党の総帥で兄の小山朝政のとりなしでなんとか許されたのちは、和田合戦にも参加し、承久の乱では、その功によって摂津や淡路といった重要国の守護に任じられています。
特に淡路守護職は、鎌倉幕府滅亡まで、長沼氏の独占となります。
・長沼八幡宮(真岡市観光協会)
■長沼の地名の元になる
横浜市栄区の「長沼」は、長沼宗政に由来します。
現在の長沼一帯が、長沼宗政に所領として与えられたことから、その土地が「長沼」と呼ばれるようになりました。
土地と苗字の関係は、多くの場合、「所領にした地名を苗字として名乗る」ものですが、長沼宗政の場合、すでに下野国の所領の名前を苗字として名乗っており、そのため、新たに相模に得た土地が、領主の苗字に合わせて改名するという珍しいパターンになっています(長沼宗政の指示というよりも、『長沼の地』と自然発生的に呼ばれ出した可能性が高い)
長沼の地の中心としての役割を果たしていた能満寺(正安寺)の開基(パトロン)である、と言われますが、開山開基なのか、中興開基なのかは、不明です。
・長沼宗政の碑(正安寺)
■長沼町












