___ラクルテルの「反逆児」

           
 ゴッホは誠実、変人、不器用、愛されたい人、信頼する人に好かれたい、愛されたいと人一倍思う人、 愛を確かめるため、とっぴな行動をしてしまう、きわめて人間的な、正常な人であったと考えられます。 自分のことを理解してくれる人がいかに重要なのか、ラクルテルの小説「反逆児」について述べてみたいと思います。

カラスのいる麦畑

 主人公は高校生の私、時代は第2次世界大戦前のドイツ、ユダヤ人が迫害されていた頃です。 私が高校に入った頃、風貌が一目見て忘れられない、特異な顔つきをしたユダヤ人の少年がいました。 そのクラスにはユダヤ人が何人かいましたが、私の友人だけがクラスの全てから無視され、石をなげられる毎日です。 国語の時間、教師を差し置いて、「はい」と手をあげて、自分の作った詩、ドイツ、フランスの至高といわれる詩を読み上げます。 教師もクラスの全てが彼を嫌っています。 しかし彼の声は教室上を揺るがし、余りの臨場感にあたかもその詩人と同じ情景の中にいたように感じます。ろうろうと彼の詩は教室中に響き渡ります。 私は彼の才能に打たれ、彼の楯になろうと決心します。石を投げられるとき私は彼の前に立って石を顔に受けます。私は彼のすばらしさに心から打たれたのです。 しかし彼は悲観的です。彼の家は宝石商で大金持、でも彼はどんどんひねくれていきます。僕はユダヤ人だから。 そうではないのです。ユダヤ人だったこともありますがその才能を人は認めたくなかったのです。 高校を卒業して私は彼と別れます。彼のおかげで私なりに自分の道(文筆家)を歩むことができたと思います。
 あれから20年以上、彼はどうしているだろう、時代は移り世の中は変わり、それでも私は彼の作った詩、静まり返った教室の中でトロイの戦争、ユリシーズ、ローマの昔に生きたような感動を私は思い出すことができました。 ある日...新聞に彼の名をみつけた...私は飛び上がった、懐かしい友の名前...私は全てを投げ打って会いに行った。 彼は間違いなくそこにいた。私は懇願した、その後の君の行き着いた先を見てみたいと。 ところが私の見たものは悲しいけれど、期待したものではなかった。彼の風貌と同じく、その才能は尽き果ててしまっていたのか、作者に言わせると俗物にすぎなかった。 長い月日誰にも認められず、褒められず、親にも芸術を理解されなかった。 彼は自分が信じられなくなってしまったのでしょう。 今までのお話は私の心の中で脚色されて変形してしまっているかもしれません。おそらくあらすじはだいたい合っていると思います。
アルルの跳ね橋

 ここからは私の独自の小説の続きです。 彼はまた私と会うことによって才能を花開かせます。なぜなら若い時、つちかった技術、才能、考え方は頭脳の奥深くインプットされていて何かの刺激によって表に現れるからです。 ほら皆さん昨日のことより昔の感動をひょいと思い出すことがあるでしょう。