昔、講談社の「日本の名画42 佐伯祐三」という本を買いました。 その解説にブラマンクとの出会いが書いてありました。 美術部でちょろちょろ一年にいっぺんの学園祭に出展するため絵を描いていた頃、佐伯の人形を模写したことがあります。 この絵は大雑把で自分でも描けそうな、それでいて魅力的でぐいと引きつけられました。 医学部を卒業しますと絵を描く暇などまったくありません。 ようやく絵を描くスペースをつくり絵を描きだした頃、佐伯祐三の本を思い出し、その解説を読み返しブラマンクとはどんな人物であろうと思うようになりました。
 ある日、沼袋の古本屋で「ブラマンク」里見勝蔵 著( 昭和43年 )を見つけたときの喜び。 オーベルシュルオワーズでの二人の出会い、ブラマンクの人生、考え方、(カラーでなく白黒写真ですが)力強い彼の絵がいくつも出ています。 その絵は佐伯祐三との共通する面も認められました。 その数年後、新宿の古本屋にて「没後30年・フランス野獣派の旗手 ブラマンク展」を発見。 この本にはカラー、詳しい解説もびっしりです。 これは1989年に日本でブラマンク展が開かれたとき出版されたものでした。 ブラマンクの描く花や家、空、木々に感動しました。


 2002年安田火災東郷青児美術館において、「ブラマンク・里見勝三・佐伯祐三展」が開かれました。 ゆっくりこの3人の歴史を思い起こしながら贅沢な時間を楽しみました。 モーリス・ブラマンクが「美の巨人たち」で取り上げられたのを観て、よりブラマンクに対する想いが強くなりました。 モーリス・ド・ブラマンクは若い頃、自転車レースで賞金稼ぎをしていました。 その後、車でもスピードを楽しんでいます。 ブラマンクは初めてゴッホの絵と出会い、雷に打たれたような衝撃を受けます。
   http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/f_030208.htm

 その後、ドランやマチスとフォービズムという新しい絵の世界を開いていきます。 私が印象派、フォーブが好きなのは絵の世界でのフランス革命のように思えるからです。(人が束縛されず自由に生きる、自分が自分らしく生きるための闘い) フォービズムはなぜ無くなってしまったのか? その答えは...「皆同じような絵を描くようになってしまったから」というのが私の推論です。 マチスはマチスに、ブラマンクはブラマンクになったのです。
 日本の作家で一番好きな作家は佐伯祐三です。(彼の絵にブラマンクは大きな影響を与えます。) 佐伯祐三の死は「悲しみのパリ」という奥さんの書いた文章で知ることができますが、いい絵を描きたいという気持ち、いい絵を残したいという気持ちが痛いほど伝わってきます。 その佐伯を「このアカデミズム!」と怒鳴り散らした、彼の自信。 美大をでたわけでもないのに、色彩、構図すべて完璧と里見勝三に言わしめた才能。
 少しでもブラマンクの絵を多く見てみたいと思い、所蔵されているシャルトル美術館の旅に出発しました。 モンパルナスから列車でシャルトルに。 ノートルダム大聖堂ステンドグラスがすばらしく、「シャルトルブルー」といわれています。 シャガールやルオーが影響を受けたとありました。 ブルーをいかにブルーとして美しく見せるかというヒントがあるような気がしました。 寺院の中はひんやりしてブルーのステンドグラス、やさしい顔をして赤子を抱くマリア。 ちょうど日曜日のミサの日でパイプオルガンと歌声に心が洗われるようでした。 その裏は美しい庭園と家並が見下ろせます。
 またその左裏に美術館があります。 開館は2時。 しばらくベンチで待ちましたが、門が開きません。 しまった、また、ふられたか!(私はオランジェリーには、何度もふられ今回も入れませんでした)と、思いましたら、中に人がいて、手招きしています。 ドアを押したら中に入れました。
 「はるばる日本からブラマンクを見に来たのだ」といいましたら、受け付けにいた男性が「ブラマンクはあちらの部屋にありますよ]と教えてくれた。 他にたくさん絵がありましたが、なにがあったか今は記憶にありません。 ようやくモーリス・ド・ブラマンクに会いに行くことができたのです。 ブラマンクの部屋にある絵を見て感激、いろんな角度から写真をとり、楽しんでいました。 ひょいと上を見ますと監視カメラがあります。 全部見られていたのかと恥ずかしく思いました。 美術館は訪れる人も少なくゆっくり鑑賞できました。 画集と本物は違うということがよくわかりました。 「人形を抱く少女」では、私なら人物をほぼ中心に持っていくでしょう。 ブラマンクは画面の下に描いています。 残った背景は画集ではわからなかったのですが見事な色彩で模様を作っています。