モジリアニと結核 ベ ニ ス

モジリアニの死の原因は、彼がもともと結核であったこと。33歳のときジャンヌと結婚、翌年1920年1月24日36歳にて死亡。翌日二人目の子供を身ごもっていたジャンヌは飛び降り自殺。私はペールラシェーズ墓地に彼らを訪ねていきました。なかなか見つかりませんでした。ひっそりと隠れるように彼らのお墓はありました。1944年治療薬として、その後ストレプトマイシンが発見されます。現在はリファンピシン、エタンブトール、イソアニドなどが使われています。エタンブトールは眼に影響することがあり、EB内服の患者さんは眼科でチェックします。モジリアニの没年1920年ごろはまさに結核は不治の病であったのです。


モジリアニ (1984−1920)


モジリアニのお墓


後追いした 恋人 ジャンヌ
モジリアニ、好きな作家です。映画モンパルナスの灯でしたか、モジリアニの絵が批判される場面を今も思い出します。モジリアニは自ら死に近づきたいようにアブサンをあおり、絵を描く、ハンサムな美男子、若くして結核で死んだ早世の星。印象派の人たちが活躍した時代はナポレオン3世がパリ市長クレマンソーにパリ大改造計画をさせた時代です。オリンピックや万国博よりすごい時代、革命は起きるし、本来なら絵なんか描いていられない時代であったでしょう。その頃マネの草食の昼食に感激したした人たちなどが株式会社を作ってサロンに対抗し、絵を売るためにつくった集団が印象派とよばれるようになりました。時代が大きく移り変わるとき生まれたこの人たちの絵は浮世絵の世界、心と通じるところがあります。だから日本人によく理解される一面もあるかと思います。結核菌は1882年コッホによって結核の病原菌として確定されました。コッホがパスツールと同時代、シャーレに菌を培養し、それぞれの菌が色や形、大きさの違うコロニーを作ることを見つけ、菌の分離に成功、以後Aなる細菌がAなる病気を起こす、そういう菌が次々と発見されていきました。


ベニス


世界 大プレイボーイは?

ド ン フ ァ ン

カ サ ノ バ

在 原  業 平


在原 業平
いつも理想の女性を追い求めるのはドンファン(ドン・ジョバンニ)もカサノバも同じ。ドンファンは容赦なく女を捨てる。カサノバは別れた女性からも慕われる。果たして別れた女性にとってはどちらがいいのであろうか?ベニスに初めて行った時「ため息橋」をガイドブックで見ながらそこの宮殿を大きな建物だなあと通り過ぎました。ああ「先達はあらまほしきかな」(吉田兼好、仁和寺にある法師)。
ベニスに2回目訪れたとき、その建物になにか催し物があるというようなポスターがあり興味をそそられ入ってみました。なんとそこはドゥカーレ宮殿、強固な牢がありました。ベニスの商人のアントニオもここに囚われていたのであろうか?カサノバはこの牢屋からただ一人脱獄した人物であったそうです。


ドゥカーレ宮殿