ドラクロワの ドラクロワ美術館
ショパンとサンドの肖像

  ショパンがピアノをひきジョルジュ・サンドが耳を傾けるスケッチがルーブルにあります。 これを元にドラクロワはピアノをひくショパンとその後ろで白い布を手にして静かに聞き入るジョルジュを描いています。 このとき二人はお互いの才能を認めあっていたのでしょう。 ショパンは新曲を耳をすまし聞きながら、考えながら、ピアノをひいていたように見えます。 ジョルジュはその曲を魂で聴いています。 ドラクロアも曲の中に埋もれて描いたのでしょう。 天才たちの至福の時。 


サンドの肖像
(オードロップゴー所蔵)

ところが、もともと一つに描かれたはずの絵は引き裂かれ、ショパンの肖像はルーブルに、サンドの肖像はオードロップゴーにあります。 ふたりが9年間の恋の末別れ、絵も切り裂かれてしまった。 いつ誰が何のために切り裂いたのかいまだにわかってはいません。

  ショパンは肺結核に苦しんでいました。 当時の治療法は主に静養と食事療法です。 パリの共同墓地「ペール・ラシェーズ」にショパンのお墓を訪ねたことがあります。 私の心の中の風景と化しているかもしれません。 緑の木に囲まれ優しい風がショパンを包みます。 彼の眠る棺の上に涙しながら祈る乙女。 パリの共同墓地はおだやかに時が過ぎていきます。


ショパンの肖像
(ルーブル所蔵)
  ドラクロワがこの著名な二人をショパンのピアノを聞きながらスケッチする、それはセピア色の色調の中に閉じ込められた幸せ。 ドラクロワの生涯は1798−1863。


ドラクロワ
 バスチュユー襲撃が1789年で、ドラクロワは1798年のナポレオンのエジプト遠征時に生まれています。 この時代はフランスだけでなく、ギリシャ、ベルギー、イタリアでも統一のための戦いをしています。

ペール・ラシェーズ墓地
  861年にはアメリカ南北戦争、人権をかけての戦いが行なわれていました。ルーブルの民衆を導く自由の女神は自由を求める人間のシンボルといってよいでしょう。ドラクロワは若いときから身体が弱く、終には結核と戦い、亡くなりました。 ドラクロワはショパンとともにペール・ラシェーズ墓地に眠っています(なお、ルーブルから歩いていけるところにドラクロワ美術館があります。 近いうちに行くつもりです)。
  ドラクロワ美術館は2階以上はアパルトマントになっています。このアパルトマントに住める人は幸せだなあと思いました。この小さい美術館にジョルジュサンドの顔がスケッチされたもの(若いときから年を取ったときまでの)があり、彼を賞賛する手紙などがありました。また彼の使ったパレットや筆が陳列されており、昔の家具もありました。彼の絵を小さく模写したものや習作がありました。庭はそう広くはないのですが、、白い砂利が引き詰められ、小鳥が訪れる大きな木がそれを取り巻く形で茂っており、ベンチが縦二つ、横二つ、いつまでも座っていたい気分でした。私が訪れたのは穏やかな日でした。庭は彼の趣味でしょう、家の雰囲気とぴったり会っていました。ドラクロワは58歳のとき、歩いて5分のサン・ジェルマン・デ・プレ教会の近くにこのアトリエをつくりました。この教会の天井画や壁画を描くためです。喉頭結核などで体力がなくなっていたためだそうです。
  友人のエリックと美術館、教会を訪れ、近くのカフェでビールを飲みながら食事。この界隈はいい雰囲気。エリックは隣の人たちとジョークをかわしながら、英語で「こんなことを言っているんだよ」と可笑しそうに話してくれます。そのあと、彼の興味のある、昔の建物のデコレーションを写真に撮りながら、セーヌ川にむかって歩いていきました。パリ市長ドラノエ氏の提案で、「海が無いならセーヌ川にビーチをつくれ!」との提案で、できたといわれるパリ・プラージュ。セーヌ川に沿って砂が運ばれ、浜辺の様相を呈するパリ・プラージュ。人でごった返し、ビールも飲める、シャワー、プール、大道芸人もいます。絵を子供たちに教えるところもあります。美しい景色の中に、水着姿のパリジェンヌ、裸の子供たちが水遊び。エッフェル塔や橋がきれいです。夜はエリックたちとパリッ子のよく行く安いレストランで会話を楽しみました。ドラクロワの時代から現代までをパリでは一日で経験できます。

ドラクロワの ドラクロワ美術館
ショパンとサンドの肖像