小泉八雲の網膜剥離と
「耳なし芳一」

 
小泉八雲

  小泉八雲(ラフカディオハーン)は1850年ギリシャ生まれ。16歳のとき、ロープが左目にあたり失明してしまいます。
 1890年40歳で来日、小泉せつと結婚。せつの怪談ばなしを書き留めていったと、どこかで読んだ記憶があります。 そのとき、英語に訳せない言葉がありました。たとえば、「雨がしとしと」、「ぱっと」、「じとじと」、「顔のないのっぺらぼうがにゅうと」などという言葉を訳せずそのまま書いたのです。 それがかえって物語りを迫力のあるものにしたようです。

松江の旧居

  八雲は強度の近視でありました。 強度近視では網膜剥離を起こしやすい網膜変性が存在していることがあります。 また、眼球打撲はボクシングなどでもわかりますように網膜剥離を起こすことがあります。

  1918年スイスのジュウル・ゴナンが網膜に出来る穴が網膜剥離の原因と発表しました。しかし、1929年のアムステルダムの国際学会までそれを信じる人は少なかったと記載されています。 その後網膜復位術が徐々に行われるようになりました。 網膜復位術に網膜裂孔閉鎖を行ないますが、そのためにはいろいろな方法がとられています。 また剥離になる前に飛蚊症などで来られた患者さんに網膜裂孔が見つかり、レーザー治療が行なわれます。

  1866年に八雲は左目失明しています、それまでは不治の病であったのです。 近年、硝子体手術の進歩もあり網膜剥離の手術は治癒率は非常に高くなっています。 しかしながら、手術前に患者さんに絶対直ると言い切れない難しい手術のひとつです。 最近、近視の手術が盛んになっていますが、短所も大きいことを知っていただきたいと思います。 私は近視手術について日本眼科学会の定める規定以外はやるべきでないと考えます。

  作品の中で「耳なし芳一」の話があります。これは弟の健二がフォトアルバムの「七盛塚の夜」に芳一を描いています。なぜ天草四郎や金太郎、自分が登場するのかわかりませんが面白い絵と感じます。彼は眼が見えない琵琶法師。

「七盛塚の夜」
( 弟 健二 )

琵琶を奏でる 蝉丸
 平家物語の壇ノ浦の戦い弾き語りで屋敷の人々の感動と涙を誘う話はあまりにも有名です。では耳なし芳一はなぜ失明したのでしょう? まだ若い10代か20代、生まれたときから見えなかったのでしょうか、それとも途中失明なのでしょうか。 若くしての失明原因には遺伝的な病気外傷、母親の感染症などが考えられます。
  耳なし芳一の失明原因はわかりませんが平家の怨霊を泣かせたくらいですかよほどの芸達者であったのでしょう。 琵琶法師は今昔物語の蝉丸(盲目で粗末な小屋に住んでいる蝉丸に源博雅が琵琶の道を習いに行く話し)が始めといわれています。