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或る日、本郷三丁目の『麦』という音楽喫茶でコーヒーを飲んでいました。そこの雑誌置き場に25年前の雑誌(1979年7月号の芸術関係)がおいてありました。その中で3点の記事が眼に付きました。
1)岡本太朗の縄文土器の美を発見した時の
驚きの文章。
2)モナリザの妊娠説
3)東郷青児のゴーストライター能間弘
1)および2)については知っておりましたが、3)については始めて知り興味深く思いました。 |
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ルーベンスやベラスケスは弟子がいて共同作業のように絵が描かれていました。そう云う意味で他人が筆を加えてもいいのかもしれません。しかしなぜ東郷青児はそんなことをしたのでしょうか?
筆者は、 1)自分が描くことができない
2)他人が描いても同じ結果
3)依頼をこなしきれない
これらのどれかが考えられるとしていました。
現在、彼の絵を田舎で買い求める人はいるけれど、彼の死後は絵の価値は下落し続けている。 女を描くスタイルを確立する前の、「コントラバスを弾く」、「自画像」などの初期の作品が新鮮な感動を与えるとありました。 私も同感です。東郷美術館には何度か足を運びましたが、あのシンプルな女性の絵はすぐ飽きがきます。最初の頃の東郷青児はこんな絵を描いていたんだという絵のほうがよほど魅力的と感じます。 |

代表作の一つ
「青い山」
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励起(れいき)状態の時、つまり安定する前の方がよかったと思います 東郷青児のゴーストライター能間弘についてはインターネットで調べても発見できませんでした。完全に闇の中に葬られたのでしょうか。(店の主人になぜこの本が一冊だけ雑誌に混ざってここにあるのか聞きましたら、お客さんが忘れていったのでしょうとのことでした。) |

初期の頃の作
「コントラバスを弾く」
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