絵を描くで
      「思ったこと」

           

素人なりの私のデッサン感について述べて見たいと思います。幼稚園や小学生の頃絵は自由に描けました。さらさらとマジックインクで線だけで描いた絵が新聞に出たりしました。誰よりも早く描いて先生に手渡した絵が特選、その頃は上手く描こうなどと思いもしませんでした。早く描いて遊びにいこう、それだけでした。私が絵をもう一度描きたいと社会人になって絵筆を握ろうとしたとき、立ちふさがったのは、デッサン、絵を描く基本はデッサンという本がたくさんあることでした。「デッサンができないといい絵が描けない!」。もうひとつ、プラド美術館に行ったときに見た、マルガリータ(このことは前にも書いています)こんな上手く描くことはとてもできない。絵なんてヤーメタ...デッサンを教えてくれる人がいて1年ほど教えていただきましたが、退屈になってしまい、その方も仕事の関係で引越され、一人油絵の道具を時々いじっていました。そんなとき美術部の同級生が個展の招待状(銀座で写真)を寄越しました。医師は忙しく今は絵は描けず写真だけとのこと、同時期、医科芸術の音楽部の方から誘いを受けました。それで入部、しばらくすると若い?という理由で美術委員に推薦されました。佐伯祐三(人形、、これなら描ける、素人でも。それになんて心を打つのだ。魅力的!)、ゴッホなどの画集をまた見るようになってやってみようという気になりました。個性的であれば(本物そっくりに描く必要がないという意味です)。

岡本太郎の「歓喜」で、

今日の芸術は、

         うまくあってはならない。

         きれいであってはならない。

         ここちよくあってはならない。

 絵を教える場合、

         うまく描こうと思うな。

         下手に描いていい。

そんなふうに言っているという言葉で救われた気がしました。

デッサンは油絵そのものを描くことで養われる。練習できる。そしてその描きつぶしたカンバスがあとでその上から別のものを描くことで生きてくると感じています。

大学受験の場合、数学、物理、化学、世界史、古文、漢文いろいろ学びます。大学に入って工学部、理学部、農学部、法学部、いろいろありますが社会にでてそれを役に立てている人はごくわずかだと思います。経済が多くの部分を占める社会にでる。それまでまったくお金について教えない教育。また自分で事業を起こしたことのない教師が子供を教える。若いときは何があるかわからないから不安があり、そして自由があります。お金がなくても当たり前。明日があるさでなんとかなります。仕事をして家庭を持つと得たものと失ったものの大きさを考える時期がきます。それが過ぎると俺の人生はなんだったのか?これからでも夢を追い続けられるのであろうか?と疑問が生じてきます。

                   
この矢のように駆け抜ける時間の中で、したいことをしようとする時間は限られます。そういうことを踏まえて、絵を描くなり、勉強するなりするとき大切なのは、総論と各論だと思います。総論、つまり、さっと大雑把に捉える。専門は各論でしっかり身に付けるということでしょう。