激動の中、
 コローの絵は穏やか



コローの生まれた頃は、まさに激動の時代。1794年テルミドールの反動、1795年国民公会解散(革命広場、ルイ15世広場といわれていましたが、ルイ16世が処刑され革命広場と呼ばれるをコンコルド和平として解散)。1798年ナポレオンのエジプト遠征。東大紛争のときも多くの学生、市民が社会のあり方に疑問を抱き、闘争にかかわっていきました。芸術家や小説家にもその影響は及んだと思います。フランス革命は当然ですが、それ以上に多くの画家や思想家に直接、間接的に影響を及ぼしています。
しかし、コローの絵は穏やかで見ていると吸い込まれそうな自然を描いています。それはどうしてなのか疑問でした。東大紛争のときのようなノンポリであったのか?または体制にすっぽり飲み込まれた人であったのか?コローの人生を垣間見ますと、『まさに人は思春期までの体験が大きくその人に影響を与えるのだなァ』と感じました。 彼は1796年パリ、セーヌのほとりで生まれています。この生家の周りの風景(木、水)は旧体制時代そのもので彼の生涯に大きな影響を及ぼしました。また、母親はヴェルサイユに育ち、マリーアントワネット時代の社交界の雰囲気を敬うところがあったと思われます。少年時代、百科全書派のセヌゴン一家に親しみ、自然に対する構え、人間に対する尊厳を教えられたとあります。1822年26歳のとき「画家になりたい」と父に告白し、本格的に絵を描き始めます。コローは長い間誰にも認められず絵を描いてきましたが、1846年レジオン・ド・ヌール勲章を与えられる。その頃、コローはドラクロワとも親交を結びお互いに高めあいます。以下、私の印象に残った部分のみ抜粋します。

「コロー自画像」
1)コローのパレットのひとつに使われた使用色は19色と多彩。
2)ピサロやモリゾーに絵についてアドバイスしている
3)印象派のの多くの人が彼の野外の光を表現する技を認め、人物がはドガ、ルノワール、ピカソに影響を与えている
4)多くの贋作の出現。
5)病気がちで年老い、惨めな生活をしていたドーミエに家を買ってあげる(ドーミエの行き方。また晩年失明寸前になり1878年両眼手術とあり興味あり)。



「モルトフォンテーヌの思い出」

6)「モルトフォンテーヌの思い出」にはいくつもの類作があるとのこと、ここに行ってみたいものです。モルトフォンテーヌの絵の模写して見ようと思いました。そう思ってモルトフォンテーヌのボートマンなど見ましたら、『あかん、無理や!』と思いました。模写などとてもできる代物ではない。佐伯の人形は素人に描く勇気を与えますが、この絵には降参。最初、空の灰色を描き遠景から描いていくのだと思いますが、『こりゃ無理や!』

ところで、風景画や静物画を人はなぜ描くのでしょう?また、どういう絵が人に感動を与えるのでしょう?
ゴーギャンが黄色い家にいたころ、ゴッホに『なぜ靴の絵を描くのか?』と聞いたところ『この靴は神父として歩き回っていたとき、私のために磨り減ってくれた、大切な靴なのだ』と答えています。ゴッホの「種をまく男」は神が人に生を与えている、「麦刈り」では人の命を刈り取っている。つまり、絵の中に自分の信じている神を見ています。ゴッホにとっての風景とか静物には、神が関わっていたと思います。
「種をまく男」


「麦刈り」
セザンヌはどうしてサント・ヴィクトール山を描いたのでしょう?セザンヌがパリからなぜいやな保守的な人たちの住むエクスに戻ったのでしょう?それは若い頃、ゾラ等と一緒に走り、遊んだ景色が心の中にあったのだと思います。サント・ヴィクトール山は山として、またまわりの景色から見て、普通の人にとっては描きにくい代物でしかないと思います。コローやセザンヌがなぜ景色を描けたのか、それは目の前にある景色が、すでに心の中で昇華され 子供の頃の思い出の中の景色と交じり合い、哀愁とか懐かしさとかの感情を加わったように思われます。

7)ポール・ヴァレリーの言葉「ペン、鉛筆、彫針といった抽象的な手法を用いながら、コローは光と空間の絶妙な効果を引き出してみせる。これほど生き生きとした樹木、これほど動きに満ちた雲、これほど広々とした遠景、これほど堅固な大地が、紙の上に線で描かれたことはかつてなかった。これらの驚嘆すべき頁をめくっていると、この人物こそは、あたかも瞑想家が思念の中で生きるように、自然の事物を見ることに生き続けたように感じられてくるのだ...」彼は胃癌に犯されていて1875年2月22日息を引き取る。しかし、その死を迎える1か月ほど前に友人に言った言葉は、謙虚さと未来への希望を語るものでありました。老齢にもかかわらず、まだ自分の絵を描き続けるつもりでいました。『私が、どんな風に新しいことをやるつもりか、君にはわからんだろう。まだ見たことも無かったようないろいろなものが見えるんだよ。空の描き方を今まで知らなかったような気がする。この目の前にあるものといったら、ずっと薔薇色がかっていて、ずっと奥深くて、ずっと透きとおっている。ああ!このはてしない眺めを君に見せてあげたいものだ』。世界で始めて胃切除に成功したのはビルロート(1829−1894)。私も医学生の頃ビルロートの第I法、第II法を外科学で習いました。




触診でお腹をさわり腫瘤を触れるかどうかなどポリクリで教わりました。1881年ビルロートは43歳のへラーという3ヶ月前から嘔吐があり、腹部腫瘤の存在から胃癌と診断された女性の胃切除を行い成功します。コローが亡くなったのは1875年です。コローは多分食欲不振、嘔吐、腹部腫瘤などにより胃癌と診断されたと思います。1881年ビルロートによって手術を受けた女性はまもなく肝転移によって死亡しています。腹部に腫瘤を触れる段階では、かなり進行した状態と考えて良いと思います。早期発見、早期治療が大切と考えられます。