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ゴヤの視力障害を語る前に歴史的背景について考えてみました。 |
1701年 |
スペイン継承戦争スペイン王位はハプスブルク家からブルボン家(ルイ14世の孫フィリプ5世)に移ります。 |
1746年 |
スペインに生まれる。 |
1780年 |
王立アカデミーの館員となる。 |
1789年 |
カルロス5世の宮廷画家となる。 |
1792年 |
聴覚消失。 |
1799年 |
首席宮廷画家となる。 |
1820年 |
黒い絵を描き始める。 |
1824年 |
フランス ボルドーに亡命。 |
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着衣のマハ」と「裸のマハ」これらの絵はアルバ公爵夫人がモデルとされています。これは裸体画の新しい試みです。 |
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「というのは裸体画は神話などにのみ描かれるのがそれまでのしきたりであったからです(ギリシャ時代の裸体と衣装の美しさ→「ミロノヴィーナス」、ヘレニズム時代→「濡れた衣装」 など)。 |
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1792年 46歳のとき、高熱、視力低下、腹痛を起こし1795年まで苦しみます。一時半身麻痺、その後回復しますが、聴力は失われます。そのため彼の性格が変わり暗い絵を描き始めたという説もありますが、マハや気まぐれなどの絵も描いていますので精神面ではしっかりしていたと考えていいと思います。その頃スペインではみだらな絵を描くと厳しい罪に問われる時代でした。アルバ公爵夫人は一族の墓に入れてもらえず、共同墓地に眠っている。1945年アルバ家の依頼によりに『裸の「マハ」』と『アルバ公爵夫人』との体型違いを証明するため掘り起こされた。しかし、その結果はよくわかっていません。この絵はナポレオンの軍隊により、1808年に発見されています。当時は貴族の間で着衣の婦人の絵の後ろに裸婦の絵を隠し、鑑賞することがあったようです。 |

1808年5月3日、
プリンシペ・ピオの丘の銃殺
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「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘の銃殺」もプラド美術館で見ることが出来ます。ナポレオンが軍隊でなく民衆を敵に回したのはコレがはじめてです。フランス革命の原動力であった『愛国心』、『権力への抵抗』などが、この頃から怪しくなってなっていきます。梅毒説は妻が20回妊娠したが、流産、死産などで生き残ったのは一人のみということに基づきます。腹痛および神経症状が回復せず、絵を描き続けることが困難であったのではないかと思われます。統合失調症の発作としても考えにくい。この46歳の頃から聴力は失われる過程の病名を特定するのはとても難しい。今なら眼科にそのような患者さんが来られたら、血液検査、MRI、髄液検査をし、耳鼻科、脳外科、内科などに診療を依頼するでしょう。原因がわかればその原因にふさわしい治療を施すことができます。しかし、原因が特定できなければ、私なら抗生物質投与とステロイドパルス療法を考え、経過を詳細に追うこととするでしょう。 |
「私の友人の耳鼻科医の意見」
さて、ゴヤの症状ですが、高熱、視力障害、腹痛を約3年にわたって患っています。そして半身マヒと聴力障害...症状の発現するタイミングもあると思いますが、多くの神経症状が同時に出現したのであればやはり、急性の中枢(特に脳幹)の感染症などによる多発性の神経障害でしょうか? 難聴が後に単独で出現したのであれば、突発性難聴などが考えられるでしょうが現代においても両側性はまれです。半身マヒは脳梗塞が一番考えられますが、内耳動脈は椎骨動脈由来で、もしそこの梗塞が起きればめまい症状は必発と思われます。不整脈などの心臓疾患がありTIAなどを頻回に起こしていたのなら、過性の半身マヒ、頻度としてかなりまれですが突発性難聴(両側高度)もありうると思いますが..あとは機能性難聴なんかは考えられませんでしょうか? ストレス社会において年齢に関係なく時々見られます。実際は聴力の低下が無いのに難聴を訴えるケースです。聞こえないと言っている割には会話がスムーズだったり、聴力検査ではほとんど聞こえていない結果なのに会話ができるとか...あくまでも私の少ない知識からの推測?にしか過ぎません。
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ゴヤ自画像 |
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