思い出というもの



人は苦しかったことやくやしかったことはよく記憶しているもので、楽しかった思い出はそれほど頭には残らないようです。例えばあの高校に入りたい、入った途端、次の目標ができ手に入れた幸せはどこかに行ってしまうのです。だから、写真とかビデオでその幸せな時々を人は残したがるのでしょう。私
のくやしかった思い出のいくつかを述べてみましょう。


私が小学1年のとき、担任の山本先生が言った言葉、「白矢が暴れたら、皆で団結して2階の窓から放り出せ」と、よほど悪い生徒だったのでしょう。自分がそんなふうに教師に言われたことはこの年齢になっても覚えています。他に思い出に残っているのは、スエズ運河、パナマ運河の思い出です。「パナマ運河は1869年にスエズ運河建設に成功したフランスの企業が、最初パナマ運河をつくろうとしたが失敗して、アメリカがそれに成功した」と友達に話したら、皆でうそつきよばわりされ、先生に聞いてみようと言うことになり「白矢がこんなこというんやけど。うそやねー」「そんなん知らんな」と、先生は答え、私は調べて本当ということを知らせたいと思いましたが、資料が見つからず、そのままになっていました。それから40年、最近黄熱病について調べていると昔の記憶が蘇ってきました。そして私の言ったことが正しいと言うことがわかりました。スエズ運河建設に成功したフランス人レセップスがパナマ運河建設に取りかかりますが、レセップスに雇われた9万人弱人々の約5万人が病に冒され。6千人近くが死亡、そのため会社は倒産します。黄熱病は肝臓、骨髄、腎臓を破壊し、黄疸、嘔吐、出血、無尿を起こします。その事業をアメリカが引き継ぎます。黄熱病は黄色い微風、果物、不潔によってもたらされると信じられていました。カルロス・フィンレー医師が蚊原因説を唱え、ウオルター・リード軍医が友人たちを使い、実際に蚊に刺される刺されないという実験を行いアエデス薮蚊が黄熱病をもたらすと確信します。フィンレー医師の友人ゴーガス医師は、蚊帳を使い、また蚊の産卵する水に注目。徹底した蚊退治が始まり、そのため死亡率はグンと下がり、パナマ運河建設は成功します。パナマ運河は小学生の頃の思いですがひょんなことで思い出しました。 私の母親はいつも参観日には先生に私のことでしかられるのが常でした。「白矢が大学に入るようなことがあったら地球がひっくり返るがな」。その頃の教師はひどいことを平気で言ったものです。
小学4年生の時、杉原先生が担任になりました。私の母親は頭を下げ、「いつもご迷惑をかけて申し訳ないです」といつものように先生に私のためにひれ伏し最初から謝りました。ところが杉原先生は「そんなことはありません。あなたのお子さんは磨かぬ玉ですよ!磨けば立派になります」と言われ、母は生まれて初めて私をほめる先生に出会い空を飛ぶように有頂天で帰ってきました。その母も80歳になりました。私はそれを聞いて少し勉強するようになりました。


しかし、あいも変わらず素行は悪くて、中学でも授業中歩き回り、喧嘩したり、カンニングの真似をわざとして見せたり、どうしようもない悪ガキでした。若いときは死ぬと言うことがわかりませんでした。映画で侍が切られて死ぬのが不思議でした。死なないでおこうと思えば生きていられる。それほど生命力が強かったのです。だから怖いものはありませんでした。2階の窓から飛び降りても平気と思っていました。中学2年の時、福田先生という人が担任でした。私はどうしようもない不良少年。この先生の顔を皆で顔面神経痛とあだ名していました。略して、ガン面というあだ名がついていました。その頃の私は悪ガキもいいところで、授業中は先生が黒板に向かっているとき、立ち歩き、黒板にチョークを投げたりしていました。ある日突然ガン面が背広を脱ぎ捨て「俺も人間やど!」と掴みかかってきました。私と取っ組み合いの喧嘩です。そのときさすがに先生を殴るのはいけないと自重したことまでは覚えています。高校に入ってから、両親からこういう話を聞きました。ガン面が私の家にきて「お宅の息子さんを殴ったのは申し訳なかった。私は大学を出てすぐ教師になりました。職員室でも私のやり方を批判する人がいっぱいいます。若気の至りでした」と泣いて謝ったということです。両親は私が中学の頃そのことは一切言いませんでした。高校に入ってから福田先生は立派な方であったと教えてくれました。50歳くらいになり、初めて中学の同窓会に出席しました。福田先生は私の顔を覚えてくださっていたようで「おお、白矢か!」と会場に入る前に声をかけてくださいました。私も当時の非礼をわび、「おかげさまで東京でなんとか暮らしています」と頭をさげました。熱血漢で癇癪持ち。しかし、身体でぶつかり合った先生は有りがたく思います。


中学3年の時、早朝マラソンのとき、私が私の子分達と神社でタバコを吸っているのを見つけたある先生が、朝礼のとき、全校生の前に私を立たせ、「この卑怯者」と言ったことです。少なくとも教師であるべきものが生徒の立場を思うなら、人前で非難するとは何事か。それ以後、私は人に注意するときは人前でしてはいけない、場所を変えて、1対1で話すべきだと心がけるようになりました。その時の先生の名前や顔は今でも覚えていています。つらいことや悲しいことはあとで思い出して、笑えることもありますが、結構後を引くこともあるようですね。

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