『脚気』  
佐伯 船旅の頃

 
佐伯は1924年大正12年12年11月26日香取丸に乗り、
翌1月3日パリに到着。
この頃の船の旅で食事はどうであったか。

現在日本の死因3大死因は 脳梗塞、癌、心筋梗塞、
当時は腸チフス、結核、脚気。
 脚気は昔恐ろしい病気であった。脚気細菌説を支持したのが森鴎外。
森鴎外はドイツに留学している。  
陸運省に陸軍軍医副として勤務
1884年 22歳  陸軍省の命でドイツに留学
1888年 26歳  ドイツから帰国
1922年 60歳  7月9日死去
ドイツのロベルト・コッホは1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。病気が細菌によるという考え方は森鴎外のころ、広く支持されていたでしょう。
1885年緒方正樹 脚気菌を発見したと発表これを最後まで支持したのが陸軍軍医総監、森鴎外。 このため多くの軍人が脚気で死亡。
これに対し高木兼寛は海軍省に入ってから1875年イギリス留学、疫学、栄養学などを学ぶ。(日本の海軍はイギリス海軍を模範としていたので、イギリス医学を採用、陸軍はドイツ医学を採用)高木兼寛は脚気は食物摂取に関係するのではと疫学的な考え方で、この病気に取り組み、二つの軍艦の兵士にそれぞれ、白米だけ、麦をまぜたものを食べさせ、食物が関係することを証明、海軍は陸軍と違い脚気をなくす。
1910年鈴木梅太郎がビタミンB1が脚気を予防すると発表。1924年大正12年12年11月26日香取丸の佐伯の乗った船ではすでに食事はバランスが考えられたものだったのでしょう...



以下  WIKIPEDIA (パソコン百科事典) の引用
森鴎外 ドイツ留学時代


鴎外は当時軍隊内部で流行し、軍事衛生の上で大きな問題となっていた脚気の原因について細菌による感染症であるとの説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛と対立した。あくまで自説に固執し日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)ため、陸軍が25万人もの脚気患者を出し、3万名近い兵士の命を犠牲にしたことについて責任があるとされる(同時期、高木の指示で兵員に麦飯を支給していた海軍では脚気患者は軽症者がわずかに発生したのみで、死者は無しと伝えられる)。「ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した者」との批判すらある。一方、森を擁護する意見としては、生活的に決して裕福ではなかった下士官・兵たちの「軍隊に入ったのだから白米を食いたい」(当時麦飯は囚人や貧乏人の食事とされていた)という主張があったことを考慮すべきであるとの説もある。

しかし脚気の項目で詳細が記されているように、麦飯を採用していた海軍において脚気による死亡者が無かったことを考えると、鴎外に対する擁護は信奉者による過大評価と言っても過言ではなかろうと思われる。日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は全く失われた。「予は陸軍内で孤立しつつあり」とは、この頃の鴎外の述懐である。

後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、オリザニンと脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ後も、かたくなに鈴木と学会の見解を誤りであるとして糾弾したとも言われており、医学界での孤立をますます深める結果になった(結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった)。


高木兼寛