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医学と芸術の旅

東大闘争 雑考

1)安田講堂攻防戦
S43年 1月29日 東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入。
同年6月26日 東大文学部無期限ストに突入。
同年7月 5日 東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)結成(全共闘議?・山本義隆)。 教養学部も無期限ストに突入。
同年10月12日 法学部無期限スト突入。開校以来初の10学部「無期限スト」
同年11月 1日 東大評議会で大河内一男総?の辞任を承認
同年11月 4日 新学部?会議で加藤一郎法学部?を学?事務取扱(代行)に選出
同年12月29日 文部省(当時)が、1969 年度の東大入試中止を発表する
S44年 1月10日 秩父宮ラグビー場で7学部代表団と大学側の集会。駒場共闘 100 人 以上逮捕。
同年1月18日 翌19日にかけて、封鎖解除実行(安田講堂攻防戦)。東大内での逮 捕者は600名以上


学生側の要求は全共闘と民青系では異なり時期によっても変遷し一定はしないが、主として、 (1)医学部、文学部などの不当処分の撤回 (2)警察力導入への反省と再発防止 (3)学生、職員の教授会と対等な交渉権の確認 (4)学部分断工作の中止などであった。(全共闘の要求は特にはっきりしないが) 私の頭に残っているのは資本主義、帝国主義に加担する東大を頂点とする教育システム という考え方である。

【経緯】
東大闘争のきっかけは、昭和43年1月に、東大・医学部の学生が「インターン制度に代わる登録医制度」に 反対したことから始まる。 医学部の学生達は、この制度改定に反対するため無期限ストを実施。さらに、東大・ 医局?を缶詰状態にして制度改定反対を申し入れた。しかし東大・医学部は、この缶詰事件で17人の学生の処 分を発表した。ところが、処分発表された1人は、缶詰事件に関与していないことがその後判明し、学生側と東 大側で紛争の火種となる。この処分撤回を要求する学生側と東大側で平行線が続く。
6月には、反日共系の学生たちが、東大のシンボルである「安田講堂」を不法占拠した。これに対して、大河 内東大総?は警察に出動要請。機動隊1200人が大学構内に入り、不法占拠を解放した。7月5日には、学生 達の集会で「全学共闘会議」が結成され、医学部の不当処分撤回と警察介入批判など7項目の要求で戦うことを 明確にした。11月、この一連の騒動に対して、大河内総?が引責辞任する。以降、加藤一郎総?代行及び各学 部?との話し合い(と言っても、教授らを監禁状態にした)は進展がなく、翌年の「安田講堂攻防戦」へと展開 していった。
昭和44年1月18日、東京大学(以下、東大)・加藤一郎大学総?代行は、東大・安田講堂、その他の教室を 不法占拠している全学共闘会議(以下、全共闘)の学生達を排除するため、警察に出動要請を行った。この要請 に警察は、8500人の機動隊を派遣し35時間の攻防戦を展開した。教室や安田講堂に立て篭った全共闘の学 生達は、バリケードを作り、投石や火炎瓶で機動隊に抵抗した。機動隊は、催涙ガスや放水で徐々に教室を開放 していく。最後の砦となった安田講堂では、全共闘の主流派が多数篭城し、翌日の19日午後5時45分、全員 逮捕がされるまで35時間の攻防戦を繰り広げた。東大及び周辺地域では、報道関係のヘリコプターが旋回し大 騒音、催涙ガスの充満、器物破損などで、さながら戦場における市街戦の模様を呈した。この安田講堂の攻防戦 で、全共闘の学生達371人を逮捕、重軽傷者は100余人にのぼった。

2)昭和43年東大に入学。当初、オリエンテーションで上のクラスの人が色々説明してくれる、そのときは各 セクトに属する学生たちも、自分たちの思想を述べていたが、それほど本気で相手を非難することもなかった。 一クラス50人くらい同じ教室に集まる。お互い、まだちょっと話するくらいの仲だった。7月5日 東大闘争全 学共闘会議(東大全共闘)結成(全共闘議?・山本義隆)。教養学部も無期限ストに突入。
クラスで仲のいい藤井君と駒場寮の前を歩いていた。ドラム缶に火が焚かれ、我々二人は?い影を落としなが ら歩いていた。「無期限ストが可決されたぞー」という声が聞こえ、慌ただしくなる。バリケードを正門につくる 動き、走り回るセクトの学生たち、そんな中で二人は「明日から授業がないねーゆっくり寝れる」などとのんき なことを笑いながら話していた。ところが、そこから?い?い紛争の日々を迎えることになるのである。

無期限スト
このストのすごいところは無期限という形容詞がついていることである。いつまで続いてもいいということで ある。4月に入学してドイツ語、英語、数学などはクラス別、社会学や法学、政治学などは選択であちこち大き な部屋に押しかける。時間があるときは高校でいうホームルームみたいなものが行われていた。自然と仲良くな る友人が増えてくる。コンパ、合ハイ、クラブ活動に参加しながら勉強。
クラス会には東大紛争なるものを上の学年のあるセクトに属している人が話す(今は精神科になっている、こ の人にも会いたいものだ)。この人はどもりで、アンアンと調子をとりながら話す。「人の苦しみを自分の苦しみ と考えて行動して欲しい、医学部で起こった理不尽なことが、自分におこった、そうしたら自分はどうするか」。 今でも北朝鮮に拉致された家族の身になって考えて欲しいということに似ている。ところが、スト前までは、や はり他人事でクラス選出の代議員になるのもいやであった。全学スト突入、駒場正門にはバリケードが築かれセ クト別のタテカンが並ぶ。「ワレワレハ〜トウキョクノ〜・・・」独特の 言い回しのアナウンスが流れる。構内 に入っても授業が行われない。
毎日のように行われるクラス討論、オルグに来るセクトの人の話、日がたつにつれ、全共闘、民青、ノンポリ に色分けされて行った。日和見という言葉が、何をひよっているのか!などと動詞化されて使われ、それが不思 議とも思わなくなっていった。友達の関係で私は民青系の動きをしていた。敵は本来当局、政府であるが、なぜ か学生同士が争うことになる。いろいろな名目でデモを行った。新宿西口の地下広場では一般市民や学生たちが あふれかえるほどいっぱい集まり連日議論しあっていた。我々のクラスも討論の場と化した。学問とはなにか? 東大を頂点とするピラミッド、この教育システムが帝国主義につながる!ベトナム戦争反対!教授の特権を許す な!沖縄の基地を廃止せよ!沖縄から米兵機が飛べば自動的に日本は戦争していることになる!

3)私は紛争のはじめの頃、民青にも入らず、全共闘にも入らず夜マージャンばかりしていたことがある。昼は クラスで討論、中村というクラスメイトがブント、革マル、社青同、中核などセクトの違いについて黒板に書い て説明していた。若いときは少しの違いで派閥を別にしてしまうのかもしれない。
三島由起夫が駒場に来て全共闘と対話、対決、私もその中にいた。赤ん坊を肩車して話す学生とかいて、三島 由起夫も困ったように見えた。三島由起夫は関西弁でいうと「ええかっこしいやな」と思っていた。ところが自 衛隊で割腹自殺、本当にびっくりした。三島由起夫の本で不道徳教育講座という本がある。内容はよく覚えてい ないが、とてもユーモアがあって面白い。「潮さえ」「仮面の告白」などはどうかな?と思うが、この不道徳教育 講座は知的なユーモアに溢れている。その中で銀閣寺の一場面は皆でおもしろがった記憶がある。以下のような 内容だったと思う。
主人公が女にもてないと悩んでいたら、友人が「自分の欠点を見せればええのや、俺、足悪いやろ、 それを言うたら女はそれが気の毒に思うのか、この足に キスしてくれるんや」と話す件である。
それで皆で女に持てる方法、若いときは何でも面白いもの!「このにきびにほれてくれるんや!」、「どない? このやけどの跡」、「頭悪いのでなやんどるんや」、「ここに禿げがあってナ」。自分の悪いところを言いあって、 「これ見て、この傷に女が惚れるんや。」笑い転げる。三島由紀夫、衝撃の割腹死と同じ年にこんなことがあっ た。大阪で日本万国博覧会開幕8岡本太郎の太陽の搭)。赤軍派日航機「よど号」ハイジャック事件。
庭も室内も芸術品のように誇らしげである。それに比べて日本はなんと寂しいことか。どうしてこれほど違うのか?今庶民が買えるのはとてつもない値段の建売住宅。ゴッホが生まれてから10年いたというズンデルト。ゴッホの父が牧師をしていた教会はひっそりした感じだがおごそかだ。

S44年1月18日 東大安田講堂の封鎖解く!あのときの教室を思い出す。全共闘であったものに対して、 「お前はなぜ授業に出るのだ!出て行け!」。「俺はこれから自分の生き方で示す」と言った友。真剣に考え苦し みぬいて、権力が大学の自治を破り、代議員大会で全学ストが止められ、突然普通の世界に戻ってしまった。中には林先生のようにクラスの仲間をいつもわけ隔てなく暖かい眼で見てくれる 担任もいたが、そっけなく、お前はバカかということを平気でいう先生もいた。今となっては全て遠い昔である。
江夏が奪三振日本新記録、「ブルーライトヨコハマ」、「友よ」、「機動隊ブルース」、こんな歌が流行っていた頃、 私は東大牧場に行き、馬に乗ったり、ソーセージを作ったりもしていました。
農学部では学生執行部副委員?をし、毎日のようにアジテイト、デモ、ガリ版スリ・・・しばしの合間をぬっ て桜の木の下で花見をしたり、デートをしたり、マージャンしたり、多くの友人と心から付き合えることが出来 た。学生運動しながらエイトを漕いでいた(8人のり)・・・いい思い出。ズッペとはスープのことではないかと 思うが、どんぶり鉢に紅茶がいっぱい、それをぐいぐいのむ。汗をかいた後、それはどんどん身体に吸収される。
東大の山中寮は山中湖の近くにあり、その周りには運動場がたくさんあった。夏休みを利用して合宿。山中湖 一周、私は 13 キロ一時間で走れた。今思い出されることで山中湖一周一時間は私のなかで誇れる一つだ。皆で 定年後、山角君の別荘で合宿しようということになっている。面白いことに記憶と言うものは、不思議。楽しか った思いでは、それぞれ一人二人覚えていて「そんなことあたっけ?」山中湖13キロ一周マラソンは皆覚えて いる。森本が1時間以内で一位、次が白矢で一時間ちょっと、山角が 1 時間半、渡辺が足のまめをつぶしてビ リ。山中湖でフォークダンスをしたことや、女の子を誘ってボートに乗ったことなど、ほとんど覚えていない。 戸田で合宿してまずいズッペを飲んだり、冬に川に落ちたり、夏は蚊に唇をさされて、はれ上がった口をした山 角。それぞれ道は違っても思い出は一緒。山陰の安旅行では、山口大学の寮に泊めてもらい、銭湯に行った記憶。 紛争当時、東大入試がなかった頃、皆で留年、「お前はなぜ?」、「全共闘のバリバリだったから」「うそー、お前 が?」、皆まじめに生きてきた。これから第2の人生、そのとき山中湖に行って13キロは走れんでも、ゆっくり 歩いて、昔の俺たち仲間いつまでもやっていこう。昔若かった頃の顔と重なって俺たちは走っているようだ。
東大農学部ボート部の同窓会もしばしば行われるようになった。数10年ぶりに仲間に会えると思ったけで胸 が高鳴った。学部ボート部の仲間は今も心の支え。彼らと夜行列車で山陰の旅、日光の旅。彼らの一人が昔の我々 の都内対抗試合の索引を押入れから見つけて送って来た。そこに我々の汗したボート部の若かりし日の名前とと もに。あの頃の記憶が蘇って、すっかり心は青春時代にぶっ飛んでしまった。埼玉県の戸田に東大ボート部の合 宿場があり、多くの企業や大学が艇航を持っている。そこで合宿してナックル4やエイトを漕ぐ。東大には学部 ボート部と全学ボート部があり、東大紛争で全学ストの時、よく練習できたのだろう。全学ボート部が日本一に なって、当時の東大総?と一緒に食事したという話を予備校時代に一緒だった坂田君(彼は始めひ弱な東大生で したが、ボート部に入り、エイトの一人となっていた)に聞いたことがある。

写実の画家クールベ
パリ・コミューン、3万ともいわれる民衆が殺され、その首謀者として逮捕されたのが、クールベ。1877 年、あの第一回印象派展が開催された3年後、58歳でこの世を去った彼。東大紛争で農学部を退学させられた 勝呂君は今どうしているのであろう?若き日、自分の信念を貫き、そのとき引くに引けなくなったのであろう、 信念を貫くとは、自己破壊にもつながることで、今の自分を殺すことにもなる。私のHPにラクルテルの反逆児 の小説についての文章がある。その中の主人公の友人がどうなったのか?
東大紛争で有名になった秋田明大は週刊誌にでていていた。日大全学共闘会議(日大全共闘)結成。議?秋田 明大、田舎で百姓をしているようだ。「泣いてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている」の橋本治は本など 書いて頑張っているようだ。
赤軍派、浅間山荘事件、オウム、若いときはまっすぐ、いのししのようにわき目もふらず走ってしまう。天皇 崩御の時反対しして飛び出し逮捕された昔の知り合い。時は過ぎ、時代も変わり、穏やかに過ごしているはずで あった自分にも、昔の勢いが少し残っているのだなと感じた。
東大紛争の初期の目的は達成されたかに見える。時代の理不尽は数十年の後に時代が解決する。ローテーショ ン、この制度は現場を知らない役人と知識人の産物であると思われる。6年の学生時代が、8年に延びただけと 批判される面もある。しかし、この制度により医師の医局離れをよんだ。だが、この理不尽の解消はまた新たな 局面を生じさせる。何事も一気にすすまない。性急過ぎる行為は先走りとしての価値しか持たないと思う人もい よう。しかし、これらを引き起こした原因は、意味は違ってもそのまま続くことない。ただ、この変化は結果が 似ているが本来の目的とされたものではない。こういうことは歴史のなかで繰り返されている。医局はそれまで の力を失った。それとともに地方の医療崩壊が始まった。この制度をつくった輩は死刑に処してもいいだろう。 多くの命が失われ、今後もそれが続くのだから。

東大43年SUV3Bの同窓会が2006年7月8日、38年ぶりに開かれた。50人中16人の出席。この 会はその後毎年行われることになった。同級生たちはその後も毎年多く集まっている。昭和43年SUV3Bで SはScience U類(薬学 医学 理学 農学 医学 保健) V類(医学 保健) Bは第二外国語がドイツ語。入学し てからしばらくして東大紛争が始まる。
同窓会の席で、親友の丸井君が昔の写真のコピーを皆に配った。4月に入学した我々はクラス編成のその日、 記念すべき一同に会する写真を撮っていた。みんな初対面でこれからえらくなるぞという怖いほど緊張した顔を している。このクラスから精神科医になったのが5人、中安(宮崎勉の鑑定をしたことで有名)もそのひとりだ。 東大紛争がいかに精神に影響したかがわかるような気がする。皆この紛争に今でも影響されている。懐かしい話 やそれぞれの人生を語りあった。

私は農学部畜産学科を卒業したあと、サラリーマンをしてまた医学部に入りなおした。普通は教養学部の駒場 の学生は其れほど強い絆はできないそうだがあの当時の仲間は、毎日のように議論したり、マージャンしたり、 何しろ無期限ストでバリケードの中の仲間、異常の中が正常と思う世界にいた友達なので特別で、卒業しても、 みんな当時のことをしっかり覚えているようだ。普通、東大の2年間の教養時代は友人としての付き合いは?く 続かないそうだ。しかし私のいたクラスは今でも同窓会がある。クラスは民主青年同盟と全共闘、ノンポリに分 裂。授業はないものの、毎日のようにクラス討論をした。大学とはなにか?学問とはなにか?今の自民党は腐っ ている、他人の問題を自分の問題として考えるべきだ!医学部ではこんな理不尽なことが毎日のように繰り返さ れている、日本を変え、新しい民主制度に変えなくては!貧困、差別を無くそう!この時の情熱、若さ、このた めに大学を去った友人、敗北を一つの生き方として変えていくと言った友人。思い出せば胸が熱くなる。

東大43年SUV3B同窓会の翌日
毛利嘉孝(もうりよしたか)助教授(東京藝術大学音楽学科音楽環境創造学科、新自由主義社会における政治・ 文化運動について考察する気鋭の社会学者)によるレクチャー+トーク「 マッピングについて話そう」があっ た。
その中で東大紛争に関連する話がでた。彼は、「この紛争の後には何も残らなかった、かえって悪くなってしま ったというのである」。「それはどういう意味なのか?」と質問。彼が答える前に私には自分なりの答えができて いた。我々がいまだに不燃焼である理由がその時ようやく考えることができたのだ。東大紛争!我々はこの紛争 に関わった個々人の生き様に影響を与え続けただけなのである。今まで、ひたむきに生きてきた、色々なことが あった。泣いたり笑ったりするのが人生。ところがどこかでいつも引っかかってくるものがある。ふーと懐かし く思い出させるものもある。子供の頃、川にもぐって魚をヤスでとる、そんなときの川の中の音、川の表面を通 してみる空。貧しかったがある意味幸せな 日々だった。その日食べるものを探すライオンは自殺することはな い、その日生きることが戦いだから。過去や未来を考える必要はない、その日食べられることが幸せ。つまりそ の日その日が幸せと不幸を実感するからだ。若い頃、そんなふうに喧嘩したり、食事を心待ちにしたり、山に登 ったりしたものだ。東大紛争は心にいつも問いかけてくる、あれでよかったのか? 青年の志は虚しく破り去ら れることが多い。なんら解決されることなく自己の保身に回った節がある。そしてその思い出は風化され、姿を 変えていく。社会人として組み込まれ時に不条理にあうと、その当時の気概を思い起こすぐらいだ。

「戦後学生運動」を考察する。
HPで面白いものがあった!掲題の「戦後学生運動」考察に面白いのがある。少し同調 できないところもある が大半あたっている気もする。

・・・「汝自身を知れ」は、けだしつくづく名言であるように思う。我々は、一人一人我々でいて 自分自身である我々を知らない。「戦後学生運動」を「汝」と見 立てたとき、その渦中にあった者 もまた自分が何ものであったのか確認しえて いない。自分が属した党派運動から見ただけの運動 論で全体が分かるかと云う と心もとない。これを出来るだけ客観化する為には、一旦は運動の全 体像を炙り出さねばならない。
「白矢」議論は感情が支配する。勝った負けたに議論の内容は伴わない。質問されてもまともに答えずはっきり と別のことを話す。議論がかみ合わなくてもいい。小泉、管の対決、たけしのテレビタックルの浜幸の大声のは ぐらかし。こういう議論がまかり通る。とにかく?い年月の後振り返ると何かわかってくるのだろう。

・・・当時の青年たちにとって、実際にはもっと賢い過ごし方があったのかも知れない。だがしか し、それは後付けで云えることであり、かの時代にはここに記述したような生き方こそが最もヴィ ビッドに青年の胸を捉え、それが時代のニードでもあった。
「白矢」一銭の得にもならぬデモにわずかな金を持って参加。「アーインターナショナル」「さらば恋人よ」なん かを歌った。こういうときに連帯感が沸いてくる。

・・・「1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局?だったロベール・ギラン記 者が幹事?室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部 前の街路を埋めてジグザグデモを 繰り広げていた。『あの学生達をどう思うか』『日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野 は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、 女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に 出て働き、結婚し て所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れ ば、物事を判断する重心が低くなる。 私は心配していない』。私を指差して話を 続けた。『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕 事を手伝ってくれている』。ギランが『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した(早坂著 「オヤジの知恵」)。
「白矢」デモもしていたが、マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中も中にはいたと思ったぞ。

・・・今我々が確認せねばならないことは次のことである。なぜこの運動が潰れ たのか、潰され たのか。その原因を尋ねるのに、「理論の大いなる貧困」これである。
「白矢」なぜこの運動がつぶれたか?「理論の大いなる貧困」?それは違う。理論の大いなる貧困というならま さに今の日本にそれが当てはまる。東大紛争はその当時の常識枠で暴力行為をやめ政治家や教授らと問題点の解 決を図るように動く指導者が必要であったのだ。

こういう紛争が起こらないように役人たちは筑波大学をモデル校とする案を出した。それ以後学生運動は、ま ったく起こらなくなった。日本は完全な管理社会になってしまった。官僚が物事を自分たちの都合の良いように 決めていく。国民はただ黙って彼らに踊らされるだけになってしまった。天安門事件後と同じである。中国のト ップたちは自国の矛盾に満ちた体制を維持するには徹底した封じ込め作戦が妥当と判断したのである。結論とし てこれらの紛争はその後個々人の生き方に影響を与えるが、社会運動としては失敗で、一時的であろうが政府の 国民支配能力を増大させるだけに終わった。つまり中国の天安門事件と同じ、おとなしい日本人を一層おとなし くしてしまった。学生はデモなどしない。社会正義などのためには動かない。親切な、騙されやすい、無防備で 世界に通用しない日本人が出来上がっていった。たまに美しい出来事を見ると涙する。しかし自分からは動こう とはしなくなった。他国から馬鹿にされてもしょうがない国になってしまった。お役人様の言うことにはさから えない。作られる法は役人のためにある。今までなかった法が作られ、無駄な時間とお金を人々は使わなくては ならない。いつか変換時を迎えればいいのだが。