戸塚宿を行く(歴史探訪)

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戸塚パルソ通信@メール 第113号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol048-03

スーパーヒーローの元祖鎌倉権五郎と御霊神社(3)

■相模の元締め?宮前御霊神社

御霊神社を調べると、鎌倉郡の多くの御霊神社が、ある一つの神社からの分霊であることがわかってきました。「鎌倉権五郎」の総本山とも言えそうな、「宮前御霊神社」を訪ねました。

■宮前御霊神社

境内の由緒書きによると宮前御霊神社は延暦十三年に桓武天皇が平安京に祀った御霊宮を、村岡五郎良文が、戦勝祈願のため、天慶三年に当地に勧請したとされています。
のちに御祭神に鎌倉権五郎が加わり、さらに鎌倉幕府の北条時頼が、平氏の始祖である葛原新王、高見王、高望王の三柱を合祀させた上で、各地に分霊させ、現在は神奈川県下に十三社の分社があるとのことです。

■本当の祭神は早良親王?

さて、上記の由緒の通りとすると、「御霊」の霊は、元々は延暦十三年に京都で祀られた神霊ということになります。
延暦十三年とは、歴史の授業で必ず習う西暦794年。平安遷都の年です。御霊宮の祭神は、その「祟り」で桓武天皇を畏怖させ、長岡京から遷都させたといわれる早良親王です。御霊宮の祭神としては崇道天皇と諡されており、その祟りを鎮め、強力な鎮護国家の神霊とするための神社と考えて良いでしょう。
その強力な御祭神の分霊が、当地に勧請されたのが天慶三年。これは西暦940年で、その年に戦勝祈願といえば、平将門の乱に対するものに他なりません。
平将門の乱で村岡良文がどのような立場にあったのか、定説はないようですが、元は将門側にあった良文が、将門が不徳であったために、代わって坂東を得た、というような伝説があります。将門の旧領を所領にしたという記録も見られるので、朝廷側として一定の功があったのかもしれず、それならば、由来とも辻褄が合うように思います。

■なぜ祭神に鎌倉権五郎が加わったのか?

その後、いよいよ鎌倉権五郎も祭神に加わるのですが、鎌倉権五郎が生きて活躍していたのが、西暦1080年〜1100年ころなので、天慶三年から見て、150年も後になります。死後神格化されるまで、それなりの時間がかかると考えれば、祭神として加わったのは1200年頃の、鎌倉幕府創業の頃でしょうか。
崇道天皇を祭神とする、戦勝の縁起の良い宮前御霊神社に、平氏の英雄、鎌倉権五郎を合祀することで、坂東平氏が、源平合戦や、承久の変での加護を祈ったとしても不思議ではありません。
そして、北条時頼が平氏の始祖三柱を合祀させたというのも興味深い話です。
北条時頼が執権を務めていたのは1246年から1256年。
この期間中に、北条氏は、三浦泰村や千葉秀胤ら有力御家人を倒し、藤原氏出身の摂家将軍を失脚させ、皇族出身の宮家将軍にすげ替えるなど、着実に鎌倉幕府の実権を握り始めています。
それまで、平氏の一派でしかなかった北条氏が、いよいよ平氏の始祖の神霊をまつり、平氏の本宗家であると主張する、その最初の一歩と見ることもできるでしょう。相模各地に、13もの御霊神社を分霊させたのは、平氏の始祖神を北条氏の命によって分け与える、その力の誇示なのかもしれません。


■兜松と七面宮

・兜松(現在は神戸製鋼敷地内)

宮前御霊神社には、今では境外になった「兜松」という場所が存在します。これは鎌倉権五郎が、後三年の役の戦勝のお礼に、兜を松の根もとに埋めて奉納したというもので、巨大な岩に根を張った松が現存します。
そこは兜山と呼ばれ、七面宮という神社が建っていたそうですが、江戸の安政年間に荒らしのため破損し、御霊神社の境内に移されました。
この話を聞いて、物語の辻褄が合わないように感じました。兜山に「七面」という神社があるとすれば、そこには7つの面が奉納されていて然るべきではないでしょうか。戦で活躍した7人の主従が奉納した、という伝説になってもおかしくはないのに、現在伝わるのは、鎌倉権五郎一人の兜。
戦勝の記念に兜を埋めた、というのも、違和感があります。兜が敵将の首のメタファーとしてもおかしくはなく、敵の大将7人を討ち取った、という話になっていても良い気がするのですが、そういう勇猛な話でもない。何か、釈然としない歴史の実話が、この話の中には隠れているように思えてしまうのです。
また、七面宮と、鎌倉の御霊神社の面掛行列の関係も気になるところです。
・七面宮

少し調べただけで、謎と興味が湧いてくる御霊神社でした。