戸塚パルソ通信@メール 第131号
戸塚宿を行く(歴史探訪)
vol062-2
近藤勇も訪れた萩原代官屋敷・萩原道場跡(2)
■萩原代官屋敷・萩原道場跡
萩原代官屋敷・萩原道場跡とその周辺を巡りました。
幕末に門弟200名を超える隆盛を誇った萩原道場。往時を忍ばせる門構え。
くぐり戸は、今は竹細工が守っています。
切り株を使ったベンチ、でしょうか。
歴史の重みを感じます。
近くに、幕末ー明治に活躍した萩原家の当主・行篤を顕彰する「萩原君碑」という石碑があるとのこと。探してみると、、
ありました。
萩原行篤が、幼少の頃から武勇の誉高く、維新後は神奈川県警に奉職し、皇族の前で演武を行う栄誉を得たことなどを顕彰する内容です。行篤没後に、門弟が願い、建立されたとあります。
萩原君顕彰碑のすぐ側に、萩原家類代と思しきお墓がありました。
そこから続く坂道を登ると
眺望がひらけます。視線の先は旧東海道です。萩原代官屋敷・萩原道場跡は、旧東海道から下がった位置にありますが、その横の山は、ほぼ同じ高さのようです。
萩原代官屋敷・萩原道場跡の反対側に降りてみました。防壁のように長く続いているのがわかります。
さらに隣。ふたこぶの形をしているこの両方の丘を合わせて、三王山公園という一つの公園になっています。
そして、三王山公園から、平坦な道をほぼ一直線に進むと、あっという間に境木立場です。
旧東海道を見上げているとばかり思っていた萩原代官屋敷・萩原道場ですが、そのすぐ隣の丘からは、境木立場、焼餅坂にすぐに回り込めることがわかりました。
剣術道場を兼ねた武家屋敷の隣に小高い丘があり、そこから街道に回り込める、という立地。
どこかでみた記憶がありました。泉親衡屋敷跡(長福寺)と、泉中央公園です。
戸塚の近くの【鎌倉殿】 和田合戦の先駆け・泉親衡の乱
この武家屋敷と、丘と、街道の関係性の共通点は、まず「武家屋敷は油断を誘う位置にある」ことが挙げられます。
武家屋敷の正門に目を取られていると、そこから街道まで、兵を回すのに時間がかかるように見えることです。
しかし、実際は、その横の丘に兵を潜ませておけば、ほぼ平坦な道を一直線に進むことができます。
特に萩原代官屋敷の場合、焼き餅坂の頂点に急行できます。急坂を登ってきた敵兵が、坂下の代官屋敷に気を取られている時に、真上から奇襲をかけられたら、これは容易に進めるものではありません。
二つの武家屋敷の共通性から見ると、街道の要所には、このような「防衛拠点」を設けるべきである、という兵法書がどこかに眠っているのかもしれませんね。
■萩原代官屋敷・萩原道場跡