戸塚パルソ通信@メール 第21号
戸塚宿を行く
vol.008-03
大塔宮の足跡3
戸塚見知楽会会員で、戸塚史跡ボランティアガイドとしても活躍される、西村弘人さんに戸塚の護良親王伝説をご案内いただきました。
○護良親王と柏尾の有力者たち
護良親王伝説に登場する柏尾の有力者「斉藤氏」は、そのまま長い年月を経て、文明開化の時代、日本で最初の国産ハムを製造した、鎌倉ハムの創業家の一つとなったとか。
首洗いの井戸、四つ杭を経て、王子神社に向かう「史蹟への小径」が、鎌倉ハム発祥の地から始まっているのは偶然ではないのかも。
途中、神宮拝領の檜を通ります。伊勢神宮式年遷宮にあたり、伊勢神宮からいただいた檜で、王子神社の氏子の方々が大切に守っている様です。手入れされた敷地に、かなり年季の入った屋根付きの丸太組があります。西村さんによると、王子神社の氏子が管理していた地域掲示板で、かつては伊勢神宮や神戸の湊川神社参拝の様子などが掲示されていたとか。
湊川神社は楠木正成を祀った神社。護良親王とは浅からぬ縁があるということで、交流が持たれたものと思われます。
首洗いの井戸です。井戸の跡とされているコンクリの枠組みの中はすっかり枯れています。
護良親王の首をお祀りしたという四つ杭の跡。俗に「鎌倉から四つの山を越えて来た」=四つ越えが訛ったという話もあります。お祀りする時には四本の杭を立てて結界を張るので、そちらから来たともいわれます。
浄土真宗の成正寺の境内を通ります。
前を行く西村さん。江戸時代、東海道などは別として、脇道に入れば、多くはこんな感じだったらしいです。
いよいよ、王子神社に到着です。
桧皮ぶきの手水屋。使われている材木は、護良親王が活躍された吉野の杉。石は同じく黒木御所付近の石材。親王にとって、栄光の地、第二のふるさとといえる場所の素材を用いています。
王子神社へ向かう間、多くの史蹟、護良親王顕彰碑がありましたが、その施主の筆頭に名前が挙がっていたのが「益田」さんでした。西村さんによれば、この益田さんは、南北朝時代、斉藤家と並ぶ柏尾の有力者であった益田家の末裔。先代のご当主は大変熱心な王子神社の氏子さんだったそうです。
西村さんが伺ったところ、「益田家は、護良親王が自由の身になった時、お守りして、京都へのご帰還を補佐する役を仰せつかっていたが、親王が殺害されてしまったため、その役を果たせなかった。なので、代々、親王の霊をお守りしているのです」と、王子神社への情熱の理由を語って下さったとか。
この益田家は、神奈川県の指定天然記念物「益田家のモチノキ」でも有名です。
益田家の先代ご当主によると、このモチノキは、益田家のご先祖が、護良親王ゆかりの吉野・黒滝村から苗木をいただき、植えたものとのこと。「益田家のモチノキ」は、益田家が護良親王を偲ぶためのモノだったのでしょうか?その思いが、モチノキをここまで大きく立派に育てたのでしょうか。
益田家の敷地では、モチノキと並ぶ形で、塀に描かれた山影を眺めることが出来たそうです。
「その山影は吉野から見た風景だというんだけど、だとすると山の位置が逆なんだよね」と、西村さん。
それならば、河内方面から吉野を眺めた光景ということになります。「千早・赤坂城」からの眺めかもしれません。千早・赤坂城は、楠木正成らとともに、護良親王が鎌倉幕府軍に対して挙兵、建武の新政の狼煙を上げた、「始まりの地」。
その風景が、ここに再現されているのだとすると、どんな思いが込められているのでしょうか?