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                                                                     「絵画に対するさまざまな意見トップ」     2005/11/01

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白矢

芸術家の人生や恋、病気、気質などを調べてホームページに書いていくことが楽しくなりました。皆様もなにかご提案がございましたらお教えください。ウイーンの中央墓地のモーツアルトの記念碑を中心に、ベートーベン、シューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウスなどの病気について、バッハの白内障について近々書いてみたいと思います。ピカソについてもなにか書きたいと思います。ゴーギャンも。佐伯についてはまとめるが難しいと感じています。(2005/10現在 HPへのUP済みですが、佐伯は試行錯誤のUP)


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mitchiami (男性/長野県)

 白矢さんの研究なさっている病跡学はとても興味深い学問だと思います。ホームページの記事を楽しみにしています。病跡学には二つの重要な意味があると思います。一つは作家を生身の人間として捉え、その上で作品を人間の業(わざ)として見る鑑賞法と、もう一つは作品というものが何らかの『瑕疵』の影響を受けているものだとする分析的な見方です。これは共に作品を制作の現場から実証的に解きあかしていこうとする現代的視線だと思うのです。僕は特に後者について近頃思う所があります。
 芸術作品を特徴付けている要素を芸術性というのなら、僕はそれは差異性の中にあるのではないかと考えています。こうした見方は現代的な構造主義以降の観点で、それまではギリシャの昔から芸術作品を存立させている芸術性は、普遍性に根ざすものだとされてきました。表面上の違いは問題ではなく、その根底に流れる普遍的な価値が作品を決定するのだということですね。大筋ではこうした考えに反対ではないのですが、その普遍性というのが、実は表面上の差異の中にこそ宿っているのではないかと思っているのです。差異を望むその感性こそが普遍的な人間の業(ごう)のようなもので、人は他人とは違うものを示したいと望みながら、そのくせそれをもって他人と繋がりたいと願う逆説的な感覚をもっているように思います。
 その差異というものを分析していこうとする一つが病跡学ではないかと思うのです。病気というのは他者との差異のポイントです。それが作品にどう影響していったかを調べるのは、差異を切り分けていく行為といえます。病気というとマイナスのイメージですが、差異を特徴付ける要素として捉える病跡学では、そこに上下関係を持たせないのが鉄則です。しかし僕はそこにあえて『瑕疵』の概念を与え、さらに拡大して、作家個人のもつ社会からのネガティブな短所こそが、逆に作品性の重要な要素なのではないかと考えているのです。というのも、芸術性というのがどうも作家のもつネガティブな面に多く特徴づいている気がするからです。
 例えば、フリードリッヒの作品を特徴付けている「疎外感」や「崇高性」は、子供の頃に自分の身替わりとなって死んでしまった弟に対する自責の念や祈りのようなものが、直接創作のモチベーションではなかったにしろ、深く影響を与えていたと思うのです。これは病気とは言えない心のキズです。そうしたレベルの『瑕疵』は病跡学では扱わないかもしれませんが、実際の制作の段階では重大事だったりするものです。他にも例えば貧乏というのも『瑕疵』といえるかもしれません。経済的困窮というのは作家にとって看過しえない切実な問題で、それが作品に影響しないわけがないのです。貧乏から脱出するため、あるいは社会に対するルサンチマンというネガティブマインドを転化させることが、作品を作るエネルギーになっているばかりか、作品の内実にまで影響を及ぼしていると思うのです。芸術家ではありませんがヒトラーなどはそうした分析がされていますよね。
 病気も含めた、そうした作家独自のもつ社会からのマイナス点を、総合して分析するような学問もあっていいような気がします。
 僕はとりあえずそれを「蹉跌学」と名付けたいと思います。賛同者が集まっていつか学会が出来ちゃったりなんかして・・・。



フリードリッヒ  「孤独な木」

mitchiami (男性/長野県) (つづき)

 蹉跌学などと、まるで僕の発明のように言ってますが、作品の分析においてそうしたアプローチはこれまでもあって、文学などではむしろ主流的な解読法といえるかもしれません。例えば青春期の失恋が大きな影を落としている小説や詩は多く見受けられます。ドフトエフスキーは革命運動で処刑される寸前に赦免された経験が、後の創作活動全てに多大な影響を与えています。同じようなことは転向文学というジャンルがあるほど多く見受けられます。転向の精神的なキズが創作の拠り所となっているもので、社会運動だけでなく宗教的な転向や棄教もこれに含まれます。敗戦文学というのも同じように一つの蹉跌の産物と言えるでしょう。このように文学においては蹉跌というものが創作上の重要なポイントとされているので、それが音楽や絵画といった表現活動においても同様に影響を与えていると見なすのはむしろ自然な見方と言えます。文学のようにテーマにそれが直接間接表現されている場合はわかりやすいのですが、造形美術や音楽ではそれを具体的に検証できないため、そうした見方がされてきませんでしたが、病跡学はそうしたものの先鞭を付けたと言えます。
 ただし、ここで注意しなければならないのは、病跡学(や蹉跌学)は作家や作品の分析や鑑賞の参考にするためのもので、文学作品のような「解読」をするものではないということです。そうした分析は作家や作品の差異性を明らかにするためのものであって、一般的認識として公式化するためのものではないのです。そこを取り違えると、ムンクの絵の暗い雰囲気を、単純に死の病にとり憑かれていたためだと等式化してしまうような結果に陥ってしまいます。その両者の間には文学におけるような即対応の関係はないと見るべきです。複雑系に向うべきところを単純化や原理化に向うと、心理学がはまってしまった占いのような無明性に行き着いてしまうでしょう。



ドストエフスキー

mitchiami (男性/長野県) (つづき)

 さて、蹉跌学を考えるとき忘れてはならない重要なポイントとして、これまた僕の造語なのですが「擦過性」というものがあると考えます。擦過傷の擦過ですが、僕はこれを当人の思いもよらず大きな傷跡を残す、些細な事柄による影響と意味付けています。蹉跌というと、ともすると重大事件やトラウマなどを想定しがちですが、現実には本人も気にとめないような小さな出来事が、アリの一穴のように大きく作用することもままあることです。また、作家が自ら小さな出来事を過大に評価し、大げさに感受する事で創作のモチベーションとすることもよくあります。僕はこれを前者を正擦過性、後者を加擦過性と名付けました。(別にもっと的確な言葉が既にあるのかも知れません。誰か知ってたら教えて下さいね。)創作に影響する作家の蹉跌の経験は、そうした擦過的な事柄も多分に含まれるでしょう。そうした事を分析するのは現実には非常に困難だとは思いますが、それを考慮にいれないと、またしても重大事件だけが創作の重要なモチベーションになるという、誤った観測に陥ってしまいまいます。だいたい以上のような事を近頃考えていました。これらは鑑賞の立場の思考で、実を言えば別トピで発表しようと思っていたのですが、そことは決別宣言しちゃったし、ちょうど白矢さんが病跡学について興味深い研究をなさっているので、それとも関連があるのでこちらに書き込ませてもらいました。


トピ


白矢

 擦過性とは心に残ってしまったものが後で出てくるものと思います。角膜にたとえば傷が出来るとします。頭を打ったとします。そのとき治療して治っても数ヶ月または数年後にまた傷が同じところに出来痛み出します。木の葉や爪で傷がついた時小さな傷でも治療を始める前に洗うことにしています。微細な異物を残したまま、見た目にはきれいに治る、ところが実はこのために治らないのではと考えているからです。心に残る小さな傷も治ったように見えて治っていない、それがずーっと人生に影響を与えてくるかもしれません。
 小説や音楽と比べ絵はそれが表現されにくい部分もあるかと思います。直接的に、たとえばムンクの叫び、病める子のような作品は別として、風景のみを描くとき、見る側としては一連の作品を見て作家の個性としてのみ捕えるかもしれません。
 テレビで鈴木 保奈美主演のテレビドラマ「恋人よ」の再放送を見ました(近年自殺した 野沢 尚 の脚本)。連続ドラマの第一回目、続きも見たいしビデオがあれば買いたいと感じます。で、その触りを...結婚式場のホテルの庭でこれから3時間後に式を挙げるという見知らぬ男女が知り合います。男は結婚しようとする相手に「お腹の子供はあなたの子供ではないかもしれない」と言われています。女は結婚する相手また自分にも疑問を持っています(「恋人よ」第1話で鈴木保奈美と岸谷五朗が飛び込んだ池がこの『甘泉園』にあります )。そんな二人が悩んだ末、もともと決まっていた相手と結婚する。しかし、結婚半年後会いましょうと約束する、結婚後半年近くなって隣にその女が夫と引っ越してくる...このとき、「連ドラ」とは知りませんでしたので、結婚後幸せになるか不幸せになるかずーっと見る見られる生活とはとどうなるだろうと思いました。ところがこの作品はもっと続きもので不幸な結果に終わるということをINで知りました。心の傷は何年も後でひょいとでるかもしれません。それにしても続きの見たい作品です。内容はよくわからないけれど、こんな感想を述べている人もいました。

                              (http://www.oct.zaq.ne.jp/sun/koibitoyo.htm)



mitchiami (男性/長野県)

 擦過性という言葉はもともと蹉跌学とは別に、ずいぶん昔に作った言葉です。日常のほんの些細な事柄が心に掛かって、あるいはこだわる事で後々大きな影響を及ぼすということはよくあることだと思います。失敗や心の傷ばかりでなくポジティブな要素でも、それはあることでしょう。ちょっと引っかかるところを誇張するデフォルメの方法論も、擦過性に起因するといえるかもしれません。とかく思想性で芸術作品を語りがちですが、現実はほんのつまらないことが創作の重要な因子だったりします。むしろ思想は後からついて来ると言ってもいいと思います。だとしたら、着想やひらめきという言葉で済まされてしまうそれを、もっと積極的に評価することが出来ないかと思って造語したのです。
 taicykさんの仰る感性のシフトや、白矢さんの指摘した潜在的要因としての感性の伏流も、擦過性の特性あるいは効果と言えるかもしれません。そこまでは考えていなかったので、僕の思いつきを敢えてここで発表した甲斐があったというものです。ありがとうございます。
 taicykさんの情緒と情操の違いについて、僕は演劇のスタニスラフスキー・システムを思い浮かべました。形象ではなく内面から役を構築せよというスタニスラフスキーのメソッドは、まさしくどのような「病気にかかったか」の段階にとどまらず、「その挫折にたいしてどのような克服をしたのか」を注意深く見る必要があるという事を実践的に示したものといえます。そして、こうした考えは創作の段階だけでなく、taicykさんの言うように鑑賞においても有効だと思います。表現者が形象として現しているものは、即応的な単なる現象ではなく、一度心を経過して、意識的にしろ無意識にしろ、何らかの対抗的な操作か反応が加えられたものなのだということです。明るい絵を描く人は、根が明るいからではなく、暗さを含んだ自らの性格の中から明るさを敢えて選び取る事で、それを表現しているということを理解する事が、真の鑑賞につながる重要な点だということですね。



スタニスラフスキー

taicyk

 スタニスラフスキー・システムは知りませんでしたが、先の文章を「演劇」を意識していた部分があります。次のような事を考えていました。
 いじめられている人がいます。それを見ている人がいます。見ている人はその悲惨さに「怒り」や「悲しみ」を覚えます。それは情操の「優しさ」を刺激されたからだと思うのです。けれど、「いじめ」は芸術ではありません。『では、どのようにしたら、「いじめ」を芸術にできるのだろう?そうだ演劇にすれば良いのだ。』と。
 そこで、思った事は芸術の「芸」の字についてです。演劇と言う約束事、絵画という約束事、そういう類いの中で鑑賞者の情操をゆさぶること、それが「芸」ではないかと。だとしたらデュシャンの「泉」は本当に芸術なのかと言う疑問が出てきました。約束事を破る事を芸術とすることは、ビジョンの中の出来事ではなく、現実です。現実のいじめがどんなに傍観者たちの心をゆさぶっても、それが芸術ではないのと同様に「新たな芸の約束事を作る事」は芸術では無いように思えました。「新たな芸の約束事」を作れば確かにいわゆる「競争相手」はいませんから、「良いのか悪いのか分からない」状態を作る事ができます。でも、芸として問題とするのは約束事の範囲の中で鑑賞者の情操を揺さぶる芸を見せられるかどうかだと思うのです。レディーメイドという約束事を作るなら、「便器」を見せられて「モヨオスもの」はなんだか下劣です。それこそ、「廃墟」を持ってくる、「錆びたナイフ」を持ってくるなどもっと他に情操を揺さぶるものがあったようにも思えます。
 また、「約束事を作る事」は「現実」ですから、これは多くの人の評価にさらされる必要があると思います。赤瀬川原平のトマソンもトマソンのなかに芸術があるのでありトマソンは現実だと思いました。




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