戸塚宿を行く(歴史探訪)

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戸塚パルソ通信@メール 第153号

戸塚宿を行く(歴史探訪)

vol070-1

戸塚・品濃からアメリカへ新見正興(1)

ワシントン海軍工廠での使節団。右から3人目が新見正興

■遣米使節団 正使・新見豊前守正興

安政5年(1858)の日米修好通商条約締結により開国した日本。条約批准のため、安政7年(1860)に遣米使節団が組織されます。その正使を務めたのが、幕府旗本で、戸塚・品濃村の領主だった新見正興(しんみ まさおき)でした。
新見家は、三河以来の譜代の臣で、家祖新見正勝が、徳川家康より品濃の知行を任せられて以来、戸塚の有力領主の一人として君臨してきた家柄です。
小身とはいえ、目付や大坂町奉行を輩出するなど、重要な役目を受けてきた新見家の第十代当主である新見正興は、神奈川港に近い立地もあったのか、外国奉行兼神奈川奉行という重責を担います。
使節団正使という、今で言えば米国全権大使の役目を与えられたのが38歳の時。幕府の彼に対する期待がわかります。

■遣米使節団と咸臨丸

咸臨丸の図(鈴森勇次郎 画)

さて、万延元年の遣米使節団(出発時は安政7年ですが、渡航中に万延に改元された)といえば、勝海舟が乗っていた咸臨丸が有名です。
勝の他、ジョン万次郎や福沢諭吉など、後世著名になる面々が乗船していたためです。
ただ、この咸臨丸は、あくまでも使節団の護衛艦であり、しかも洋式艦に慣れていなかった日本の船乗りではうまく操船できず、同行した米国海軍に頼りきりという体たらくでした。そして、使節団をアメリカに送り届けると、そのままきびすを返して帰国してしまいます。

■遣米使節団の足跡

オールスター戦のような咸臨丸に比べると、実務者集団であった遣米使節団は地味なのですが、その中に一人、小栗忠順の名前があります。のちに上野介の名前で「官軍最強の敵」とも呼ばれることになる小栗忠順は、この時は豊後守。目付として新見正興を補佐または監視する立場でした。

写真左ホワイトハウスでの歓迎会・写真右使節を迎えるブキャナン大統領

一行はハワイを経てサンフランシスコに上陸。ワシントンで条約批准書を交換したのち、ニューヨークから大西洋を渡って、希望峰周り、インド洋経由で彼らが帰国したのは万延元年9月(太陽暦11月)のことでした。

米国では、その品格、優雅な物腰を称賛され、多くの知見を得て帰国した新見正興。
彼の経験は、その後の日本近代化に大きく貢献するはずでした。
しかし、開国に関わる激務を最前線でこなしたことは、彼の心身に大きな負担をかけたのでしょう。幕末、風雲急をつげる慶応2年(1866)には隠居。明治2年(1869)に、48歳の若さで病没することになるのです。

彼の死後、新見家は苦難の道を余儀なくされます。娘たちが花柳界に身を寄せるほどに困窮するのですが、その一人が伯爵柳原前光に落籍され、その娘が、歌人として名高い柳原白蓮です。

■品濃町

■次回は新見正興ゆかりの地を巡ります。