戸塚パルソ通信@メール 第76号
戸塚宿を行く(歴史探訪)
vol.033-2
境川沿い固有の謎の神社群源義朝とサバ神社-2
※今田鯖神社
全国でも境川周辺にしかないという「サバ神社」。その独特な響きの由来とは?
◯「サバ」とは何か。
十二社ある「サバ」神社のうち、「左馬」が六社、「鯖」が二社、「佐波」、「佐婆」が各一社。残りの二社は飯田神社と七ツ木神社です。
こう見ると「左馬」有利ですが、飯田神社は「鯖明神ともいう」と新編相模風土記稿にあり、七ツ木神社も元は七ツ木郷鯖神社、さらに「左馬」のうち瀬谷区の一社と大和市の一社は「鯖」から「左馬」に表記が変わった記録があり、元は「鯖」が主流だったことがわかります。
さらに「佐波」、「佐婆」の二社には、現在も藤沢に地名を残す石川一帯の有力者が創建に関わったとされていて、彼らは水軍で有名な伊予河野氏の一族とのこと。水軍は、平時は漁師だったことを考えると、「左馬」よりも「鯖」の方が、相性が良さそうです。
◯柳田國男の考察
サバ神社が、もともとは「鯖」の神社だとすると、境川沿いに分布していることもうまく説明がつきます。
民俗学者の柳田國男は、海の民と陸の民が交易する前に、その境界を守る神に、鯖を供え、そのお供えをする場所が鯖神社だったのではなかろうかと考察しています。
柳田國男は考察を少し捻り過ぎる癖があるので、わざわざ「陸の民と交易するために境の神に供え物をした」と、話をややこしくしています。
最初に交易があり、そこで大いに利益が上がったので、自然発生的に、天地の恵みに感謝して神社を作った、とか、漁師が魚を供養した、という流れが現実的でしょう。
感謝され、祀られる海産物の代表が鯖であり、いつしか「鯖の神社」「鯖の社」と呼ばれたのでしょう。
交易の場所(市場)を兼ねていると考えれば、比較的狭い地域に集中していることも、交易の利便性の面から説明できます。
「鯖神社」は、「築地市場」のような、ブランド市場名だったのかもしれません。
◯なぜ源氏と結びついたのか
「サバ神社」が、自然発生的にできたのであれば、創建年代や創建者が不明なことも納得できます。
では、なぜ、現在の「サバ神社」は、皆源氏の武将を主祭神にしているのでしょうか。
現代でも、地名変更で地名を字面の良いものに変えることは見受けられます。もともと鯖の交易場所として発祥した「サバ神社」が、時を経て、サバ市場としての機能を失い、その名称の根拠が曖昧になった時「鯖じゃカッコ悪い」と言い出す人がいても不思議ではありません。
神社としてご利益を得る方向に向かうなら、「左馬(本来は「さま」と読む)」よりも、「佐波(波を佐(たす)ける=水運繁盛、波から佐(たす)ける=防災祈願)」、「佐婆(薩婆訶=ソワカ・御真言に通じる)」の方がありがたい文字です。
なぜそちらの方向に行かなかったのか?
多くのサバ神社の来歴は、江戸時代から詳しくなり、それ以前が曖昧です。逆に言えば、「左馬」という風に改名したのが江戸時代だったということでしょう。
そこで思い当たるのが「戸塚には八幡神社が多い」ということです。
>>戸塚八八幡
徳川家康が憧れた八幡太郎義家。それにあやかって、サバ神社を源氏ゆかりの神社にしたいと考えた時、ちょうどいい御祭神が源義朝だったのでしょう。
八幡太郎義家では、八幡神社が良い顔をしない。頼朝になると、将軍ですから権威が高すぎて、これまた祭神にするハードルが高い。義経は大人気ですが、将軍から見た謀反人ですから、勝手に御祭神にすえて、謀反を企てたと疑われたら厄介です。
しかし義朝ならば、官位はそれほど高くなく、しかし、将軍頼朝、アイドル義経の父親で、ネームバリューは最高です。江戸時代には、義朝の活躍する保元や平治の軍記物が好評を博し、義朝自身も歴史上の人物としての人気もありました。
そんな人気者が「サバ」と読める官位を持っているなら、これは使いたくなって当然ではないでしょうか。
やがて「サバ=源義朝」が定着すると、左馬に改称しなかった「サバ神社」も、もともと主祭神が曖昧だったこともあり、主祭神は源義朝、と言い伝えられていったと考えても無理はない気がします。
○主なサバ神社
次回は個性豊かな「サバ神社」の紹介です。