戸塚パルソ通信@メール 第16号
戸塚宿を行く
vol.007-01
八坂神社とお札まき
最新情報はこちらから≫ 2015年(平成27年)八坂神社のお札まき
戸塚の夏の一大イベントと言えば、「八坂神社のお札まき」を思い起こす方も多いのではないでしょうか。
戸塚駅から八坂神社まで、交通規制が掛かるほどの人・人・人で大混雑します。横浜市の無形民俗文化財にも指定されている「八坂神社のお札まき」と、八坂神社を探ります。
○八坂神社の起こり
「八坂神社」という名前は比較的新しく、境内に建立された由来によれば、戸塚の八坂神社が、現在の名前になったのは昭和7年(西暦1932年)。元々は戦国時代まっただ中の元亀三年(西暦1572年)に内田兵庫が造立した牛頭天王社で、明治元年(西暦1868年)に八坂社と改称されたとのこと。八坂神社の元締めともいえる、京都・祇園の八坂神社が、旧名の感神院(別名・祇園社)から八坂神社に改称したのも同じ1868年なので、かなり緊密な連携がはかられていたことが推測できます。
境内の由来によれば、造立後しばらくして荒廃していた牛頭天王社を、元禄になって、造立者の子孫、内田左衛門尉が復興したとあります。実は元禄十二年(西暦1699年)ころ、江戸で「古呂利」という病が流行ったと、江戸時代の医師・浅田宗伯が書き残しています。牛頭天王は元々疫病除けの神様であったこと、「お札まき」のお囃子のセリフの中に「ころりも逃げる」とあることなどを考えると、江戸で猛威を振るった奇病の流入を避けるために牛頭天王社を再建したのかもしれません。
ちなみに「古呂利」とは、「ころりと倒れて死んでしまう」ことから名付けられた、突発性の病気の総称です。伝染病というよりも、心筋梗塞などをほうふつとさせますが、流行したというのがよくわかりません。
なお、時代劇などの影響で、「ころり」が現在のコレラと混同されることがあります。実際、幕末で「ころり」といえばコレラのことなのですが、元禄時代には、コレラは日本には入っていなかったというのが定説です。
○お札まきと牛頭天王符
八坂神社境内の「横浜市指定無形民俗文化財」の看板によると、元々お札まきは、江戸や大阪で盛んに行われていたが、今では戸塚だけに残る、とあります。それについて、四天王寺のサイトにおもしろい記述がありました。
四天王寺には「どやどや」と呼ばれる祭礼があり、そこで牛王宝印という魔除けのお札が配られるのですが、かつては僧侶が柳の枝に挟んでまき散らしたというのです。その護符を拾おうと皆が「どやどや」と集まったことから「どやどや」と呼ばれる様になった、という様子は、戸塚のお札まきにそっくりではありませんか?
そして、四天王寺では昔は誰でも参加できた「どやどや」が、今では「特定の中学校・高校の生徒」だけが参加できる行事となり、護符は希望者に頒布する形態に変わっていると言います。おそらく、かつて江戸や上方で盛んに行われ、今では消滅したという「お札まき」は、これに準じる性格のものだったのでしょう。
なぜ、戸塚は「お札まき」を残すことが出来たのか。
なぜ、女装しているのか。などなど、「お札まき」にまつわる様々な謎は、次号で!