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戸塚パルソ通信@メール 第17号

戸塚宿を行く

vol.007-02

八坂神社とお札まき2

戸塚の夏の一大イベントと言えば、「八坂神社のお札まき」を思い起こす方も多いのではないでしょうか。

八坂神社のお札まきは、民俗学的には巫者(ふじゃ)・神人(じんにん)・願人(がんにん)と言われるものの系統に含まれるそうです。

○天王囃子の芸能化

巫者などは、神職が家々を回ってお札を授け、代わりにいくらかの金品を受け取って生活していたというのが始まりとされます。やがてお札だけではなかなか報酬をうけとることが出来なくなったのか、あるものはお経を読み(明治以前は神仏習合だった為)、あるものを曲芸をみせ、あるものは漫才や人形遣い、歌や踊りを行うようになり、芸能人化して行きます。

江戸時代、天保年間に大阪で活躍した戯作者西沢一鳳の「皇都午睡」に「天王囃子天満巫子」と称する一文があります。それには『天王様は囃すがお好き』という物言いで家々を回った芸人たちが、かつては江戸でも大阪でも非常に良く見られたのに、今ではすっかり見なくなった、と書かれています。

口上といい、お札を撒いて家々を回る姿といい、戸塚のお札まきと大きく共通します。 これが「丗年此の方見へずなりぬ」=30年以上も見なくなった、というのです。 文化年間(1800年代初頭)にはなくなっていたことになります。

○天王囃子は江戸時代のA○B?

わざわざ懐古するくらいですから、逆に、消滅前、少年であった一鳳に深く印象付けるような爆発的なブームであったことがわかります。
世代によって色々あると思いますが「子どもの頃はすごかったのに、今はなくなってしまった芸能」例えばグループサウンズやエレキブーム、アイドルグループやバンドブーム、そうしたものの流れの中に「天王囃子天満巫子」=お札まきも位置づけられるのかもしれません。

家々を回って報酬を受けとる、いわゆる「門付芸」としての天王囃子のブームは去りますが、路上で発展した様々な芸能は、演芸(色物)やお座敷芸として引き継がれてゆくことになります。
一方、天王囃子という名前自体は祇園社(牛頭天王社)の祭礼の名称として残ります。戸塚とは比較的近い、江ノ島にある八坂神社も7月14日(現在はその日に近い日曜日)に天王囃子という祭礼を行いますが、戸塚のお札まきとは似ても似つかない、豪壮な神輿渡御のお祭りになっています。

こう見ると、天王囃子は自然に衰退したのではなく、名前を捨てて屋内芸能になるか、内容を一新して名前を残すかの二者択一を迫られたように感じます。 そんな中、戸塚のお札まきは、郷土資料によると「職業的巫者の手を離れ、敬虔な氏子たちによって祭俗として残っていることは貴重である」と述べられています。 これらをふまえると、以下のような推測は成り立たないでしょうか。

お札まきの原型である天王囃子は、文化年間の直前、大ブームを起こしたが、それがあだとなって幕府に禁止される。お国歌舞伎の例のように、幕府がブームになった芸能を危険視して禁止することはよくあること。天王囃子を禁止された「職業的巫者」たちは、一方は芸能人として屋内芸能の道を歩み、一方は祭りの形態を変えることで存続の道を探る。ところが戸塚の場合、「職業的巫者」たちが身を引き、「俗人」である氏子の自主的な行事にした。また歌舞伎同様「巫女」を女装した男が行うことで、風紀の乱れを防ぐという建前に沿い、従来の形式のまま存続させることに成功した。

あくまでも、推測です。

次回は、「お札まき」の見所を紹介します

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